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text by Junnosuke Amai
photo by Juan Ortiz-Arenas

「誰かに言われたからって、それをする必要もやめる必要もない。あなたはなんでもできる」Interview with Ela Minus about “acts of rebellion”



エラ・マイナスことガブリエル・ヒメノは、ニューヨークのブルックリンを拠点とするエレクトロニック・アーティスト。生まれ育った南米コロンビアのボゴタで10代の頃からハードコア・パンク・バンドのドラマーとして活動し、渡米後、20代で名門バークリー音楽大学に進学してジャズ・ドラムとシンセサイザー・デザインを学んだという異色の経歴をもつ。昨年、〈Domino〉からリリースされたデビュー・アルバム『acts of rebellion』は、彼女のルーツであるDIYパンクのマナーと、クラブ・カルチャーに対する情熱が芸術的/理論的な帰結を見せた一枚。そして、プロテストのメッセージが散りばめられたダンス・パンク・アルバムだ。「静かにしている理由が見つからない/時間がなくなってしまうのが怖い/権利のために立ち上がるために(We can’t seem to find/ A reason to stay quiet/ We’re afraid we’ll run out of time/ To stand up for our rights)」(“Megapunk”)。DJパイソンやブッテクノらアンダーグラウンド・シーンとの交流を通じて磨かれた才能の源泉、そして根底に脈打つ“反抗の精神”について訊いた。(→ in English)

――デビュー・アルバムの『acts of rebellion』を聴かせていただいて、エラ・マイナスというアーティストはどのようにして生まれ、またアーティスト活動を通じて今の世界をどのように見ているのか、知りたくなりました。なので今回のインタヴューでは、アルバムの話はもちろん、ルーツやバックボーンに関する話も伺えればと考えています。


Ela Minus「じゃあ、まずは説明するね。音楽に触れたのは、9歳の時に始めたピアノが最初だった。その後すぐにドラムに移って、10代の時はパンク・バンドをやってた。それからアメリカのバークリー音楽学校に入学して本格的にドラムとジャズを勉強した。エレクトロを聴き始めて、クラブに行き始めたのはその頃。それでシンセサイザーにすごく興味を持って、自分でプログラミングをしてシンセを作り始めたの。それでお金がもらえるようになって、ドラムをやりながらそういう仕事もしてた。だから、修理を頼まれたシンセが家にたくさんあって、それをいじり始めて今に至る、という感じ」

――パンク・バンド時代はどんな活動をされていたんですか。当時のことで印象に残っているエピソードがあれば教えてください。


Ela Minus「当時の私は今とは全然違ったと思う。バンドのメンバーは私以外みんな男の子だったけど、みんなすごく仲が良くて、ちょうど成長期だったし、バンドが学びの場だった。バンドの活動をする中で、自分よりも大きな存在に立ち向かうみたいな、そういうことも学べたし。10代っていう一番不安定な時期に、バンドが私の居場所だった。自分が何に向いているのか、模索する時期だから。特に、人と違う子にはそういう居場所が必要。私も人と違うティーンエイジャーだったから。ちなみに当時、すごく太ってたんだ。人気者タイプではなかったし」

――全然想像がつかないです。


Ela Minus「でしょ? 体型のせいで人気がなかったっていうのもあると思う。でも全く気にしてなかった。バンドのおかげで、私には音楽があるからって思えていたんだと思う。だからバンドには感謝してる。音楽を通してコミュニティに属することができて、自分の特別な居場所が見つかったから」





――バンドを始める前はピアノを弾いていたということですが、あなたがドラムを選んだ背景には、ピアノのレッスンを勧めたお母様への反発もあったと聞きました。パンク・バンド時代の経験は現在の活動にどのような影響、あるいは教訓を与えていますか。


Ela Minus「バンドでの経験は、全てが生かされてる。今はソロ・アーティストとしてひとりでプロジェクトを進めているけど、グループとして仕事をしていると思ってる。本当に好きな人とだけ仕事をしているから、私のプロジェクトに携わってくれる人たちには本当に感謝しているの。私の中には、パンク・スピリットが流れてる。DIY精神がすごくあって、自分がやりたいことは全部自分でやる。そして、一緒に仕事をする仲間は本当に信頼している人とだけ。今はレーベルに所属しているけど、それもレーベルの人たちが本当に良い人たちで、ファミリーだと思えるから。そういう考え方は、完全にバンドでの経験があったからこそだと思う。音楽に関しても、エレクトロのミュージシャンはコンピュータを使う人が多いけれど、自分で触って音が出る機材にこだわっているのもバンド由来ね」

――そのパンク・バンドで10年ほど活動した後、アメリカに渡ってバークリー音楽大学に進学されます。学校ではジャズ・ドラムとシンセサイザーのデザインを学ばれたそうですが、進学を決めた理由はなんだったのでしょうか。


Ela Minus「17歳ぐらいの時にバークリーを受けようと決めたんだけど、バンドのメンバーが全員バークリー志望だった。日本でも同じかもしれないけど、コロンビアでは、現代音楽で食べていきたい人が行きたい学校がバークリー。現代音楽を教えている学校が国内にはないから。少なくとも当時は、シンセサイザーとジャズを教えている学校はバークリーだけだった。あの頃の私にとってはバンドが人生の全てだったし、できればメンバー全員で進学したくて、特に深く考えず、『みんなで一緒に行こう!』って感じで。でも結局、合格したのは私ともう一人だけだったの。それが、バンドが解散したきっかけ。不合格だったメンバーとその人が喧嘩したりして、私は板挟みになってしまって。私としては、みんなで行けないなら別にバークリーなんか行かなくてもいいって、そういう気持ちだった。みんなで一緒に何かをすることが大事だったから。でも、最終的には入学を決めたのね。もちろん、後悔はしてない。素晴らしい経験が待っていたから。でも入学する前は、なにがなんでも行きたいという気持ちではなかった」


――へえ。でもそのバークリーでは、ハービー・ハンコックとの共演もあるドラマー、テリ・リン・キャリントンによる個人レッスンがとても大きな経験だったそうですね。


Ela Minus「もう、本当に全てが素晴らしかった。人生が変わる経験だった。技術的な面でいうと、ドラムでのメロディーの演奏の仕方を学んだ。ドラムで歌えるように、耳を鍛えた。どのジャンルにしても、楽曲のソウルを掴んで、メロディックな要素を表現できるようにね。ドラマーがメロディーを意識するっていうのは革命的な発見だった。でも自分で音楽を作るようになると、すごく理に適った考え方だということが分かった。彼女の理念だけじゃなくて、具体的なプレイの仕方自体がすごく納得できるものだったんだ。それを教えてもらえて、とても感謝してる。それに、彼女は素晴らしい人だから。すごく良い影響を与えてくれる存在。女性としても、私のロールモデルね」



――本当に大きな経験だったんですね。で、そうしてハードコア・パンクやジャズを経験した後、そこから現在の音楽スタイルのような方向性、いわゆるテクノやクラブ・ミュージック的なフィールドに進むようになったのは、どういう経緯があったのでしょうか。



Ela Minus「今の方向に進みたいと思ってそうしたというよりは、バンド音楽だったり、それまで自分がドラマーとして作っていた音楽のスタイルに飽きたというところが大きい。だから、最初はお楽しみのつもりでやり始めただけだった。自分の音楽に飽きちゃって、家にはシンセサイザーがあって、まあ、これを使って何か作れるかもなっていうぐらいで。それから、それまでは歌ったこともなかったから、それも実験してみようかなと思って。そうやって作った音楽に興味を持ってくれる人が現れて、ライブもできるようになるなんて、すごくラッキーだったと思う。ライブに関してはノーと言わないようにして、本当にたくさんのステージに立った。そうやって人前でパフォーマンスをする中で培ってきたものが、今の私のスタイルや今回のアルバムの音に直結してる」



――自然な流れでそうなったんですね。色々と試してみたくて。


Ela Minus「そう。新しいスタイルになってから何年か経って、それをひとつのアルバムとして発表したかった」




――では、改めてデビュー・アルバム『acts of rebellion』について伺わせてください。作品を聴かせていただいて、ダンスフロアの高揚感と、ベッドルームの静寂やアンビエントな時間とが隣り合わせで置かれたようなコントラスト、そしてあなたが語りかける言葉の強さ、臆さない力に心を奪われました。まずはサウンドについてですが、今作の音楽的なコンセプトやアイデアのもとになったものがあれば教えてください。


Ela Minus「そもそものアイデアは、『パンク・クラブ』だった。テクノ・クラブのパンク・バージョンで、汗臭くてガツガツしていて、コンパクトなイメージ。今回のアルバムをきっかけに私の音楽を聴いてくれる人はたぶん増えたと思うけれど、これまでは無名で、本当に小さいクラブに出演したりしていた。それがとても好きだったの。だから、私が愛する小さくて、こじんまりしたクラブをイメージしたアルバムを作りたかった」


――制作に際して、もっともチャレンジングだったこと、また新たにトライしたアプローチがありましたら教えてください。


Ela Minus「私にとっては全てがチャレンジングだったし、全てが新しかった(笑)。そもそもアルバムを作るのが初めてだから。それに、自分の部屋にこもって完全に一人で制作したんだけど、そういう風に音楽を作ったのも初めてだった。セルフプロデュースも初めてだし。EPを自分で作ったことはあったけど、3曲収録ですごく短いもので、それとは全然違うからね。技術的にも初めてのことづくしだったわ。でも楽しかったの。まさに“they told us it’s hard, but they were wrong(彼らは大変だと言ったが、それは間違いだった)”。大変だったけど、良い意味で大変だった。でも何でも、大切なことは簡単にいかないものだから」


――機材についてのこだわりもあれば教えて欲しいです。


Ela Minus「私は絶対にコンピュータは使わない。コンピュータとバンドは使わないのが私のスタイルで、シンセサイザーだけで制作する。基本で使っているのがmoogのMINITAURとSirin、それからRolandのJUNO-60の3つ。この3つがなかったら生きていけないぐらい大切」


――ライヴでもその3つを使うんですか?


Ela Minus「そう。これをレコーディングにも制作にもライブにも使う。すごくミニマルでしょ。そもそも機材はあまり持っていないから、持っているものを何にでも全て使うという感じ」


――セルフ・プロデュース、DIYなスタイルを貫いているあなたですが、最後の曲“close”ではゲストにエラード・ネグロが迎えられています。彼との共演はどのような経緯から実現したのでしょうか。


Ela Minus「もともと彼のファンで、ある時ニューヨークのライヴに行ったら夢みたいなことが起きて。彼がパフォーマンス中、曲と曲の間で『エラ・マイナスだね? 君の音楽が好きなんだ。聴きに来てくれてありがとう。楽しんで行ってね』って、ステージから私を見つけて声をかけてくれた。それをきっかけに友だちになって、彼のアルバム『This Is How You Smile』で歌ってほしいって言われて一緒に仕事をした。その時、私と彼の声の相性がいいことに気づいた。“close”は一晩で書き上げた曲なんだけど、彼とコラボができたらすごくいいものになるって思いついた。80年代っぽい、良い意味でダサい感じのデュエットにしたくて。だからその流れで彼に音源を送ったら、次の朝には返事が来て快諾してくれて『もちろん! 僕のスタジオに来て』っていう感じで。すごく自然な流れで、30分のワンテイクで完成したの。最高だった」


――すごいですね。運命だったんですね。


Ela Minus「そんな感じ。とっても自然で、すごく良い流れで実現したから」


――今回の制作にあたってインスパイアされたり、良い刺激をもらった音楽があったら教えてください。


Ela Minus「たくさんある。強く影響を受けているのはクラシックな音楽で、チェット・ベイカーとかマイルス・デイヴィスとかの往年のジャズ・ミュージシャンが多い。彼らみたいなすごくメロディックなものが好き。あとは最近の音楽でいうと、カリブー。今回のアルバムは、エモーショナルで、メロディックな音楽にインスパイアされてる。その3人が大きいかな。でもアルバムを作り始めた時に聴いていたのは、ダフト・パンクの1stアルバムの『Homework』とか、デンジャー・マウスとかだった。ジャンルは色々だけど、全部好き」




――ところで、今回のアルバムは実はほぼ2年前に録音されたものであると記事を読んで知り、驚きました。にも関わらず、ここであなたが発している問題定義や告発、怒り、あるいは他者に対する眼差しといったメッセージやステートメントは、むしろ2020年の現在においてこそアクチュアルに響いて感じられるところがあるように思います。ただし裏を返せば、それだけ世界や社会は何も変わっていない、いや、むしろ悪くなっている――という見方もできるかと思いますが、率直にどう感じていますか。例えば、この2年間が経過することで、書かれた当時と比べて曲のメッセージやステートメントのリアリティや重要性が増した、あるいは新たな意味が加えられたと自分で感じる曲はありますか。


Ela Minus「100%イエス。今言ってくれたことには完全に同意。もし2年前にリリースしていたら、違う作品になっていたと思う。ジョン・ケージが書いた本をよく読むんだけど、彼が『アーティストは作品が持つ意味の半分しか作ることができない。残りの半分は受け手が作る』というようなことを言っていて。今、その意味を心の底から理解してる。作品は受け手とコンテクストありきであって、受け手がどう感じるかが作品の意味を作ると思っている。私のアルバムは、奇しくもたくさんのコンテクストが生まれて、たくさんの意味を持つ時代に発表された。これ以上の好機はないと思う。意味のある時代にリリースができて良かった。私の中では、このアルバムを今年(2020年)出せたこと、それが唯一の成功よ」


――リリースを待っていたというわけではないんですよね?


Ela Minus「偶然だった。アルバムが完成したらすぐにリリースするっていう、普通の流れになるはずだったんだけど、色々な人から一緒に仕事がしたいってメールをもらったりした。私は普段、常にツアーをしているんだけど、その中で出会った色々な人たちから連絡が来て。もともと、誰かとコラボレーションすることには全然興味がなかったんだけどね。アルバム制作のために半年ぐらいツアーを休憩したんだけど、私が常にライブをやっているっていうのはみんな知っているから、制作をしているっていうのが自然と分かったみたいで。そんな中で、レーベルの人も私が制作しているっていうのを知って、興味を持ってくれて、関係者の人たちとミーティングをしたりもしてた。結局今のレーベルと契約をすることになったんだけど、大きなレーベルと契約するのはすごく時間がかかる。そんなこんなで、リリースできる状態になるまで2年かかったっていう流れ」





――“Megapunk”の「(あなたは理解したくない/あなたは私たちを引き離すことを選んでいる/それでもあなたは私たちを止めることはできない)You don’t want to understand/You’re choosing to lead us apart/But against all odds/You still won’t make us stop」というラインは、今も世界中の至る場所で起きている抗議や抵抗の運動をエンパワーメントするものですが、この曲はどこから生まれたのですか。


Ela Minus「“Megapunk”は、今回のアルバムの中で一番歌詞に時間をかけた曲。最初に書き始めた時は、女性が感じている抑圧についてのメッセージだった。私自身も女友だちも、男の人と付き合い始めると、彼に仕事を辞めるように言われるっていうことがあってね。この歌詞を書いた時も、ボーイフレンドから『仕事を辞めて。働きすぎ』って言われて、本当に頭にきてた。実際、その言葉で仕事を辞めて、主婦になった友だちも何人もいる。だからデモを作った段階では、この曲を女性のアンセムにするつもりだった。自分が好きでやっていることを辞める必要なんてない、女性だってステップアップしていくべきだっていうね」


――ええ。


Ela Minus「あとは、女性同士団結しようというメッセージも伝えたくて。女性同士が集まると、協力し合うんじゃなく争い合いがちだから。でも、そうやって歌詞を書いていくうちに、自分が手に入れるべきものを得るために闘っているのは、女性だけじゃないって気づいた。それで色々と手を加え始めたの。今引用してくれた部分の歌詞はまさに、政治について言及している部分。『気づいてないかもしれないけど、私たちが分断しているのはあなたのせいなんだ』ってね。どの国の政策もラディカルになってきていて、それが私たちを分断しているから。この曲ができたのはそういう流れ。もともとは女性のための曲にするつもりだったけど、途中から、立ち上がるための励ましが必要な全ての人に向けた曲に作り替えた」



――ということは、「(誰もがそれは難しいという/けれどそれは間違いだった/恋をするときは、すべてを愛して/不可能なことはない)Everyone told us it’s hard, but they were wrong/When you love, you love it all, and nothing is impossible」と歌う“they told us it was hard, but they were wrong.”の「Everyone」、あるいは「they」は、「女性としてあるべき姿」を求めてくる人たちのことを指しているということでしょうか。


Ela Minus「そう。それに、音楽業界でも、『(女性アーティストなら)こういう方向性でいくべき』とか、『別の言語で歌うべき』とかっていう風に言ってくる人がいるから」





――あなたの音楽は“政治的”と言われることが少なくないと思います。ただし、あなたが呼びかける、抑圧に抵抗すること、自分を愛すること、自分で自分の道を切り開くことを信じること……といったステートメントは、どれも社会や世界に向けて広く発信されたものというより、あなたの音楽を聴いている個人に対して語りかけられたものであり、また、どの歌もあなたの個人的な体験から生まれてきたものであるという印象を抱かせます。そうしたあなたの曲から窺える物事の捉え方、理念や哲学みたいなものは、あなたの中のどこにルーツがあるのか、興味があります。


Ela Minus「そういう風に理解してくれて本当に嬉しい。作りたかったのは、パーソナルなアルバムだったから。このアルバムを政治的だと解釈する人がたくさんいて、驚いてるの。私としては、これ以上ないほどパーソナルなアルバムになったと思っていたから。リスナーに語りかけるような、そんな個人的な作品にね。制作が半分ぐらいまで進んだとき、1曲目のタイトルを“A Little Act of Rebellion”にしようと思った。パワフルだけど謙虚で、良いタイトルだと思って。でも、デモを通しで聴いて、自分が作ろうとしている作品について考えていたとき、私が人生の中でいつも険しい道を選んできたのは“act of rebelling=反逆行為”なんだって気づいた。それで、ちょっと恥ずかしくなった。これまで自分がやってきたことは全て、『あなたにはできない』って言ってきた人たちを見返すためのものだったんじゃないかって思えてきたから」


――はい。


Ela Minus「でも、音楽に対してはいつも正直でいたい。恥ずかしく思うんじゃなくて、これが私なんだと思っていたいって考え直して。闘いの姿勢を持ち続けて、目の前の物事を疑い続けなければ、自由は手に入らない。そうやって自分のために闘って、自由を手にできたら、幸せだから。自分のために尽力すれば、自分の身体も魂も、良い状態であり続ける。自分の存在、そして自分がこれまで歩いてきた道をちゃんと認識することができたら、より良い人間になれる。より良い人間になれれば、周りの人にも良い影響が与えられると思う。それが、私が音楽を通して伝えたいこと。このアルバムを通して、人生への新しい向き合い方を提示したかった。誰かに言われたからって、それをする必要なんてない。なんでもできる」


――なるほど。ということは、周りにいる人たちからインスピレーションを受けることが多いですか。


Ela Minus「影響はとても受けてる。面白いのが、このアルバムを作り始めた時は極力、自分自身についての作品にならないようにしようとしていたの。でも結局、私と周りの人たちそのものが現れたものになった。なんていうか、ある意味、私にインスピレーションを与えてくれた人たちについての音楽を作ろうとすると、彼らの中に見ている自分が現れる。鏡みたいなものね」


――最後に、アルバムを聴いたリスナーにメッセージをください。


Ela Minus「日本はずっと、行ってみたい国No.1。日本の文化にもインスピレーションをもらっているし、本当に行きたい。それがひとつ目。もうひとつは、自由になって、幸せになってと伝えたい。私の音楽を聴くことで少しでも自由な気持ちになって、強くなってもらえたら嬉しい。やりたいことなら、なんでもできるから」





Photography Juan Ortiz-Arenas
text Junnosuke Amai
edit Ryoko Kuwahara



Ela Minus
『acts of rebellion』
発売中
(Domino)
http://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=11374
tracklist:
1.N19 5NF
2. they told us it was hard, but they were wrong.
3. el cielo no es de nadie
4. megapunk
5. pocket piano
6. dominique
7. let them have the internet
8. tony
9. do whatever you want, all the time.
10. Close (ft. Helado Negro)

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