社会からドロップした人間を巧みに誘い、名前や個性を剥ぎ取り、簡易な労働を与える代わりに生活を保障する町。そこでの労働とは、例えば、選挙で指定された人間の名前を書くこと、SNSで指定されたアカウントの賞賛や中傷をすること、総じて人数が有利になる様々な場面での頭数になることだったーー。その町に迷い込んだ中村倫也演じる蒼山哲也と石橋静河演じる木村紅子によって物語が展開していく中で、観客は「個とは何か、自由とは何か」という命題を突きつけられる。
この現実の少しだけ先にあるような極めてリアルなディストピアを描いた映画『人数の町』(9月4日(金)公開)は、約240編の中から第一回木下グループ新人監督賞・準グランプリを受賞した荒木伸二監督によるオリジナル脚本をもとに作られた。2020年というこの命題にあまりに的確に符合するタイミングで公開される本作について、荒木監督、そして町に染まりきれない紅子という役所を見事に演じきった石橋静河に話を聞いた。
――コンセプトがとにかくユニークで、発想の時点で傑出している作品です。監督はもともと多数決が苦手だったり、人が数に成り下がるのが怖いという恐怖から本作を着想されたということですが、そう感じるようになった具体的なきっかけはありますか。
荒木監督「小さい頃、子どもにそれぞれ番号をつけて番号で呼ぶという小学校が関西にあって、その学校に通う一人の男の子が『僕は番号で呼ばれるのは嫌だ!』と反抗をしたという報道があり、『なんだ、これは!?』とショックを受けたんですよ。その時に、自分なら『嫌だ』と言うか、言えないのかというあたりもすごく気になったんです。あと毎年夏になると、としまえんのプールに女の子たちが入って芋洗い状態になっている、夏ですね!というようなニュース報道がされるんだけど、その映像のために近くの女子中高生が毎年呼び出されて撮影されているという噂を聞いて、『なんかこわい』と思ったり。普段は地味なとしまえんのプールが妙にキャピキャピするんですよ。ある意味フェイクニュースの先駆け(笑)。本作の英語題は『The Town of Headcounts』=『頭数の町』なんですが、まさにあれは人が頭数になった瞬間だよな、とか」
――挙げていただいたのはどちらもご自身の直接の体験ではないと思うんですが、そういう見聞きしたことが積み重なっていっての恐怖だったのでしょうか。
荒木監督「自分たちに支配的なことに関して積極的に戦おうとか嫌だというよりは、わりと客観的に全てを見てしまっているのは、この映画の視点の取り方でも表れていると思います。中学生の時点で既に制服がない学校に行っていたので、自分自身が萎縮したという経験よりも『そもそも制度ってなんなんだろう?』みたいな客観的な生意気な見方をしていたことが関係あるかもしれません」
――構造の部分に目が向いていたということですね。石橋さんは監督が抱いていたような人数への恐怖を感じたことはありますか。15歳から留学されたということで、人数や個に関しては日本とボストン、カナダでの認識の差などもあると思うので、そこも鑑みた上でお聞きしたいです。
石橋「私は小中学校は日本の学校に通っていたのですが、その学校には全く校則がなかったんです。髪の毛も染めていいし、ピアスもしていいし、とにかく何かをしてはいけませんというのが一切書いてない学校でした。学校の理念は自由尊重や個性だから、前ならえもしたことないし、朝集まったり、校歌を歌わないといけないというのも全くない。親もなにかしなさい、してはいけませんということをほとんど言わない人たちだったので、子供の頃から縛られるということが少なかったんです。もちろん世の中で生きていたら多少はありますけど、格段に少なかったと思います。でも留学して帰ってきたときに、すごく窮屈だなと感じて。言葉の選び方も、喋る内容もすごく難しかった。特にアメリカではみんなが『私が最初!』って感じで、それが良い悪いではなく、その中でいると助けを待っていても誰も来ないから、私はこれをやりたいです、こう思っています、これは嫌です、これが好きですと自ら言わないと何もできない。当時はそうすることが難しかったけど、それが現地で学んできたことでした。そういう気持ちで帰ってきたら、あれ、違うぞ、と。英語は文法的に『私はこうです、なぜならこうだから』となるので、帰国してすぐの時はその癖で日本語でも同じように話していたんですが、それで意図せず人を傷つけたり、主張することはどうやらあまり良く思われないようだとわかって。穏やかにあまり意見を言わない方が物事が進むし、まずは『すみません』というようなことを言わなきゃいけない。どうしたらいいんだろう、私は日本人なのになにか馴染めないし、アメリカに行ってもアメリカ人にならなかったし、と悩んだ経験があります。
だから人数に縛られるということは経験してないけれど、自分がというよりは、帰ってきて世の中を見ていて、みんな苦しくないのかなとは思っていました。監督と同じで、それは外から見た感覚ですね。もしかしたらそういう小学校に行っていたというのもあるかもしれませんが、その感覚は子供の頃からずっとあります」
――では脚本を読まれた時も紅子の心情はすぐにわかったし、違和感はなかったんですね。
石橋「そうですね。そのまま町の中に入って行きました。最初に脚本を読んだ時のゾワッとこわい感じや『気持ち悪い!』というようなリアルな気持ちを大事にしました」
――日本に帰ってきて感じられたこととシンクロする場面がありましたか?
石橋「あるかもしれないですけど、そこまで深く考える以前に、なぜか鳥肌が立つという感覚の方を大切にしました。どういう世界なんだろうとあまり入り込みすぎるとこわいし、役柄的にもその中に入りはするけど溶け込んでしまう人じゃないから、あまり深く考えすぎずにいようと思って臨みました」
――お二人でキャラクターを作り上げる時にそれぞれが重要視した部分は?
荒木監督「最初に会ったときに『紅子は“融通の利かない人”でお願いします』と言ったらちょうどほら、今みたいに笑ったんです。今みたいにクスクス笑ったんだけど、全部理解したんだと思います。気の利く女性は魅力的だと古くから言われたりするけど、僕は融通が利かない女性の方がよっぽど魅力的だと思っていて。体のどっかが地面に釘で刺さってるような融通の利かなさが欲しいとお願いしたんです」
石橋「(笑)」
荒木監督「なんで笑ってるのかな(笑)。それが演技に活きていて、『本当に融通が効かないな、この人』という感じがとても魅力的で、僕はそれをずっと撮っているだけでもうよかったんです。スタッフはもういいんじゃないか、さっきのシーンとこのシーンとまた融通が利かないけどどうなんだと言っているけど、僕はもう1回これが見たいから撮らせてくださいという感じで。(ベルナルド・)ベルトリッチが坂本龍一が流血するシーンが好きすぎて何度も何度もやらせたのってこの感じかなあとか(笑)。あ、でも町の中と外では紅子の様子は違ってくるんですよね。町の中では紅子は、ここはおかしいという確信があるから動けるんだけど、町の外では戸惑う。翻って蒼山は元々ろくでなしなので、町の外での行動に自信があるんですよ」
――そうですね。活発だった紅子の動きが、展開が起こってから徐々に小さくなります。目線も同じく特定の対象だけを見つめるようになる。そうした身体の表現も印象的でした。
石橋「自分ではあまり身体的な部分は意識していませんでした。すごく頑固で融通がきかない、身体が固そうな女の子だなと思っていたんですけど、最終的にはすごく曖昧な、いろんな忖度の上での生き方になるじゃないですか。ただ正義感の人というだけじゃなく、最終的にはそういう生きていく上でのずる賢さみたいなところも見えるなというのは最初から思っていました。そもそも正義感だけの人っていないですしね」
――そのリアルな人間像も引き込まれる魅力ですが、一方で本作はフィクションの構図をとっていて、だからこそ現実の問題の中核をよりはっきりと映し出すことができています。現実とフィクションの狭間でどのようなバランスをとられましたか。
荒木監督「リアリズムからブラさないというのが狙いの中心で、本当に今この町があるという前提でやろうよと企画の段階でみんなで話していたし、そこは絶対に守らなくてはいけないと思っていました。衣装や技術を作る際にも、そういう世界観は格好いいよね、こわくていいよねではなく、実際にその町を運営するつもりで考えようと。こういう設定の場合は制服を作ったりしがちだと思うけど、本当に町を管理するんだったらお金がかかるからやらないと思うんです。パーカーをグラムいくらの古着屋で買ってきて着せて、深層心理で支配って感じにしちゃった方が手っ取り早いんじゃないか、と。全てをリアリティに立脚したかったんです」
――途中で実際の数字(投票率など)が差し込まれるシーンも効果的ですが、あの演出は脚本の段階であったんでしょうか。
荒木監督「あれは、もうちょっとリアルめに味をつけたいなと編集で足しました。石橋さんが読まれた脚本にはまだ入ってなかったと思います。また、作っていく段階で、リアルだったらどうするかということとは別に、シンゴジラが原子力発電所の例えであるように、暗喩がちょっとずつ入ってくるんですよね。そこはリアリティの話から少しずれるし、両方にかぶってるものもあるんですが、その暗喩とリアルをどう共存させるかがバランスかなと。あらゆる映画がそうだと思うのですが、ここは作ってみてなるほどとわかったところです。
そのバランスにおいて、自分が考える抑制やリアリズム、異化作用などを伝えるために、自作が全くないので(笑)、様々な作品、例えばスティーブン・ソダーバーグのテレビシリーズである『ガールフレンド・エクスペリエンス』などの映像なんかをカメラマンの四宮(秀俊)さんに観てもらったりして話し合いました」
――ソダーバーグの名前が挙がりましたが、著名なディストピアとしてジョージ・オーウェル『1984』や星新一の作品などがありますが、それらの読書、映画体験などは?
荒木監督「1984年に僕は中学2年生で、1984年は『1984』になったかどうかという議論を学校の先生としましたね。映画としては、『1984』より『未来世紀ブラジル』(テリー・ギリアム監督)派です。ふざけているから。現実ってふざけていると思うんです。
星新一はもちろん大好きですが、原体験ということでいうと手塚治虫でしょうか。『ライオンブックス』とか『ブラック・ジャック』近辺の手塚治虫は劇画の人たちに突き上げられてその戦いに挑んでいて、理想ではなく地獄をたくさん描いていて大好きです」
――最後に、本作を経て、そして今 2020 年という激動の時代において、お二人が考える「自由」についてお聞かせください。
荒木監督「すごい質問ですね(笑)。自由ということはよくわからなくて、不自由ということはわかるんです。そこで不自由とはなんだと考えたときには外的な障害がすぐに浮かびます。この映画でいうとフェンス。日常生活でいうと仕事や自分を拘束する家族や恋人など。不自由だった人が牢屋からバンッと出たら自由だと感じるだろうけど、自由な時は自分が自由だとは思わないですからね」
石橋「その人の心の中でしか起きないことだと思います。なんでも手に入ってなんでもできますよと言われても、その人の心が動くところにしか広がっていかないし、すごく狭い世界で考えている人はそれが全て。でも自分の心がどういう形で、どういう大きさで、どういう広がりを持っているかなんてわからないじゃないですか。だから自由は無いも同然なのかなと思います。なにか制約された状態で、壁があるから初めて自由だと感じるかもしれないけど、やはり自由はその人の心の状態でしかないんじゃないかな」
荒木監督「うん、やっぱり自由ってよくわからないです。でももしかしたらこの映画を観て、誰かが素晴らしい答えを出してくれるんじゃないかと思って作りました」
『人数の町』
9月4日(金)新宿武蔵野館ほか全国ロードショー
https://www.ninzunomachi.jp
借金取りに追われ暴行を受けていた蒼山は、黄色いツナギを着たヒゲ面の男に助けられる。その男は蒼山 に「居場所」を用意してやるという。蒼山のことを “デュード” と呼ぶその男に誘われ辿り着いた先は、ある奇妙な「町」だった。「町」の住人はツナギを着た “チューター” たちに管理され、簡単な労働と引き換えに衣食住が保証される。 それどころか「町」の社交場であるプールで繋がった者同士でセックスの快楽を貪ることも出来る。 ネットへの書き込み、別人を装っての選挙投票……。何のために? 誰のために? 住民たちは何も知らされず、何も深く考えずにそれらの労働を受け入れ、 奇妙な「町」での時間は過ぎていく。 ある日、蒼山は新しい住人・紅子と出会う。彼女は行方不明になった妹をこの町に探しに来たのだという。 ほかの住人達とは異なり思い詰めた様子の彼女を蒼山は気にかけるが…..。
出演:中村倫也 石橋静河
立花恵理 橋野純平 植村宏司 菅野莉央 松浦祐也 草野イニ 川村紗也 柳英里紗 / 山中聡
脚本・監督 : 荒木伸二 音楽 : 渡邊 琢磨
美術 : 杉本亮 装飾 : 岩本智弘 衣裳 : 松本人美 ヘアメイク : 相川裕美 制作担当 : 山田真史 編集 :長瀬万里 整音 : 清野守 音響効果 :西村洋一 製作 : 木下グループ 配給 : キノフィルムズ 制作 : コギトワークス
(c)2020「人数の町」製作委員会
photography Yudai Kusano
stylist Yoshida Megumi
hair&make-up Yuko Akika
text & edit Ryoko Kuwahara