『オールド・ボーイ』『渇き』『お嬢さん』など、唯一無二の世界観で数々の名作を世に送り出し、韓国のみならず世界中でリスペクトされている鬼才パク・チャヌク監督の『別れる決心』が2月17日に全国で公開される。監督にとって実に6年ぶりの長編映画となる新作は、霧の街を舞台にした美しくロマンティックなサスペンス。岩山から転落した男の変死事件を追う刑事ヘジュン(パク・ヘイル)は、被害者の妻ソレ(タン・ウェイ)を容疑者として捜査していく中で、疑惑とともに特別な感情を抱き始める…。第75回カンヌ国際映画祭の監督賞をはじめ、世界中で高い評価を得ている本作は、監督ならではの強烈な描写や展開が封印されていることでも話題だ。映画の日本公開を前に、昨年末に来日を果たした監督に話を聞いた。
――『別れる決心』はフィルムノワールを連想させる映画ですが、どこからインスピレーションを得たのですか?
パク・チャヌク監督「この映画には2つのインスピレーションがあります。1つ目は、マルティン・ベック・シリーズ(スウェーデンの推理小説)を読んでいるときに、容疑者にさえも思いやりを見せるような、優しい刑事が主人公の映画が作ってみたいと思ったこと。そして2つ目は、『霧』(韓国歌謡)という曲です。この曲がインスピレーションとなり、霧に包まれた都市を背景にしたロマンス映画を作ってみたいと思いました。その2つのインスピレーションを融合したのが本作です」
――ロマンティックな題材にユニークな構造と着眼点を加えることで、新しい映画体験が生み出されています。
パク・チャヌク監督「刑事が捜査中に出会った女を愛してしまう、という設定の映画は過去にもありましたが、これまでの作品とは違ったものにしたいと考えていました。過去の作品では、女性の主人公はいわゆるファムファタールと呼ばれる、男を利用する悪女のような存在です。本作の観客も、最初はソレがファムファタールなのではないかとお考えになるかもしれません。ただ、本作は大きく2つのパートに分かれていて、パート1は典型的なフィルムノワールのように仕上がっており、それだけでも一本の映画になり得るような構図です。でも、パート2が始まると、少しずつソレという女性が正体を現し、まさにロマンスが始まっていくわけです」
――監督のこれまでの作品と比較して、セックスシーンやバイオレンスがほとんど登場しないことを指摘する声も多いようですね。
パク・チャヌク監督「他の監督にはそういった質問はしないですよね?(笑) いろんな人に『これはチャヌク監督の新しい方向性ですか?』と質問されましたが、答えはノーです。この映画にはヌードシーンもバイオレンスも必要ないと感じたのです。大人に向けた映画が作りたかったと言うと、『エロティックな内容ですか?』と言う人も。私はそれとは正反対のことを意味していたのですが」
――主人公のヘジュンは韓国人の刑事で、彼が追う事件の被害者の妻であるソレは中国出身です。ソレがスマートフォンの翻訳アプリを使用して会話するシーンがいくつかありますが、そのちょっとした違和感が、むしろ観客の集中力を高めてくれるような気がしました。あの演出の意図を教えてください。
パク・チャヌク監督「翻訳アプリであれ、人間の通訳であれ、観客はその時間をもどかしく感じるので、普通は劇中での使用をできるだけ避けるものです。ただ、異なる国の男女がお互いに好意を抱いたときの最大の問題は言語の壁を前にしたコミュニケーションなので、本作ではそれをちゃんと表現したくて、あえて翻訳アプリを使いました。劇中でヘジュンが感じている、ソレの発言の意味がわかるまで待つもどかしさを、観客もきっと感じられるはずです。愛する人と会う約束をしているのに、相手がなかなか現れない。どうしたんだろう、何かあったんだろうかと、もどかしく心配しながら待つときの気持ちと似ているのではないでしょうか」
――韓国以外の国で公開される時の不安はありましたか?
パク・チャヌク監督「確かに本作では、韓国語がわかればより楽しめる部分もなきにしもあらずです。というのは、韓国語だからこそ通じる冗談があるんですね。ただ、それがわからないからといって、決して残念がることはありません。韓国の観客もさほど笑いませんでしたから(笑)」
――セリフの一つ一つはもちろん、スクリーンに映し出されるすべてのディテールを何度も観て確認したくなりました。たとえばソレの部屋の壁紙一つ取っても、見る人によって海の波に見えたり、山脈に見えたりします。そういったディテールは脚本に書かれていたのですか?
パク・チャヌク監督「壁紙のデザインについては、脚本には書かれていませんでした。美術監督であるプロダクションデザイナーが考えてくれたのですが、『オールド・ボーイ』(2003)の頃から一緒に仕事をしている人なので、お互いの好みを熟知しているんです。いつも脚本を渡して考えてもらうのですが、実際は脚本が書き上がる前から本当にたくさんの話をします。彼女は友人でもあるので、『今度はこういう作品を作りたいと思っているんだ』とよく伝えていて、今回もどのような映画になるのか理解した上でデザインしてくれました。
また、劇中には緑に見えたり青に見えたりするワンピースが登場しますが、あれはソレという女性がファムファタールなのか、あるいは本当にヘジュンを愛する女性なのかを比喩的に表現する重要な装置としても機能しています。これもまた脚本には書かれていなかったのですが、衣装デザイナーのアイデアが気に入ったので、後からセリフを変更しました。私はプリプロダクションの段階から、撮影監督や美術監督、俳優はもちろん、衣装デザイナーや他のスタッフとも本当にいろんな話をするんです」
――主演のお二人と最も話し合ったことは?
パク・チャヌク監督「特に何かに時間を割いた訳ではなく、脚本全体についていろんな話をしました。私とヘジュン役のパク・ヘイルさん、そしてソレ役のタン・ウェイさんの3人は初めてご一緒したので、まずは仲良くなる必要があったんです。タン・ウェイさんは幼い娘さんがいて家を空けることが難しかったので、私たちが彼女の家に伺いました。ソウルからかなり離れた場所に住んでいらっしゃるのですが、最近のタン・ウェイさんにとって俳優業は副業みたいなもので、普段はもっぱら畑仕事を楽しまれています。彼女が育てた野菜で作ったサラダをごちそうになったり、グラスを傾けたりしながら、仕事の話はもちろん、それ以外の人生についてもたくさん話しました。
とても楽しかったので何度かお邪魔しましたが、振り返ってみると、異なる考えをすり合わせる作業ではなく、3人とも同じことを考えているな、と確認する時間だったように思います。アメリカでは“みんなが同じページを読んでいる”と表現するようですが、同じ脚本を読んでいても、それをどう解釈するかは人それぞれです。事前にたくさん話をしたことによって、ちゃんと3人とも同じページを読んでいるな、と確認できました」
――監督はすべてのシーンにストーリーボードを用意するそうですが、どこまで事前に決めていたのですか?
パク・チャヌク監督「最終的に多少違う部分もありますが、ほぼ最初に作ったストーリーボード通りの映画になったと思います。韓国では皆さんが気になるということで、ストーリーボードを出版したんです。もし関心がある方はそれを見ていただいて、完成した映画がどのように変わったのか、比べながら観ていただくのも楽しいと思います」
――本作のインスピレーションとなった「霧」という歌謡曲は、昔から大好きだったそうですね。この曲は韓国でどのように親しまれているのですか?
パク・チャヌク監督「『霧』は1967年に発表された大ヒット曲です。当時は私もまだ幼かったので、どれほどすごい曲なのかわかっていなかったのですが、子どもの頃に本当によく聴いたことを今でも記憶しています。韓国で最高の女性歌手と言っても過言ではない、チョン・フニさんという方の代表曲です。偉大な作曲家による楽曲でもあるので、私の世代より上で知らない人はいないくらい有名なんです」
――この曲から、どのようなインスピレーションを受けたのですか?
パク・チャヌク監督「『リトル・ドラマー・ガール 愛を演じるスパイ』(2018)というドラマを撮っていた時に、ずっとロンドンに滞在していたので韓国が恋しくなったんです。そこで韓国の曲を聴き漁っていたら、久しぶりに『霧』を見つけました。さらに、私が韓国で最高の男性歌手だと思っているソン・チャンシクさんも『霧』を歌っていることを知って、ぜひ映画に活かしたいと思ったんです。みんなが聴き慣れているチョン・フニさんの『霧』を全編で使って、最後の最後にサプライズのような形で、ソン・チャンシクさんが歌う『霧』を観客に聴かせたいと考えました。でも、実際にそうしてみると、あまりにも悲し過ぎるラストシーンになってしまったんです。涙を誘うようなシーンにするつもりはなかったので、これは違うな、と思いました。それにラストシーンで男声の『霧』をかけると、まるで男性であるヘジュンの立場で物語が整理されてしまったような感覚になったんです。そこで、現在は70代になったチョン・フニさんとソン・チャンシクさんをスタジオに改めてお招きし、『霧』を一緒に歌っていただきました。そして、ラストシーンではなく、そのさらに先のエンドロールでお二人の歌ってくれた曲を流すという形に変更しました」
――本作は男性の視点だけでなく、女性の視点からも描かれていたのが印象的でした。今の時代に女性の登場人物を描く上で、監督の中で以前と比べて変化したことはありますか?
パク・チャヌク監督「私の中に変化が生じたのは『親切なクムジャさん』(2005)の頃からだと思います。きっかけは『JSA』(2000)までさかのぼるのですが、あの作品ではイ・ヨンエさんが演じた女性捜査官が物語をリードします。さらに南北の兵士が2人ずつメインキャラクターとしている訳ですが、実は原作では捜査官も男性でした。それを映画化するにあたって、わざと女性に変えたんです。軍隊という徹底した男社会に女性捜査官が現れる。しかも純粋な韓国人ではなく、スイスにもルーツのある女性にして、無視されたり、軽んじられたりする存在として描くことで、男性ばかりの社会の成り立ちをより強く印象付けることができると考えてのことでした。そのような役を演じていただいたイ・ヨンエさんには、申し訳なかったなと思っています。
一方、『オールド・ボーイ』(2003)にも女性のキャラクターが登場します。若い娘なのですが、いろんなことを経て秘密の部屋にいる、とても疎外されている存在です。そして、そのまま映画が終わってしまうんです。もちろん、そういうストーリーなので仕方がないのですが、その女の子の存在がとてもバカにされたように描かれてしまった気がして、この女性にも演じた俳優(カン・へジョン)にも申し訳ないな、と思いました。
そういうステップを踏んで、今度はちゃんと女性を主人公にした映画を撮ろうと思い、申し訳ないと思っていたイ・ヨンエさんに主演をお願いして作ったのが『親切なクムジャさん』です。さらに、女性作家に脚本を共同執筆してもらおうと考え、『別れる決心』でもご一緒しているチョン・ソギョンさんと書くことになりました。ですので、私にとって『親切なクムジャさん』は、新しいキャリアが始まるきっかけになった作品でもあるのです」
――最後に、『別れる決心』は愛をテーマにした作品ですが、監督にとって愛とは?
パク・チャヌク監督「私は作品に自分を投影することはしません。監督によっては、自分の人生を作品化する人もいます。それはそれでいいのですが、私はそのような映画は作りません。私の愛への考え方がどれほどこの映画に反映されているかは、定かではありません。私自身は、愛とは何かと尋ねられたら、2人の人間の関係と答えます。そして、2人の間に愛が生まれれば、本当の自分を見せることができると思います。人間の人間たる真の姿が、愛を通して現れると思うんです」
text nao machida
『別れる決心』
2023年2月17日(金)TOHOシネマズ 日比谷ほか全国ロードショー
https://happinet-phantom.com/wakare-movie/
監督:パク・チャヌク 脚本:チョン・ソギョン、パク・チャヌク
出演:パク・ヘイル、タン・ウェイ、イ・ジョンヒョン、コ・ギョンピョ
配給:ハピネットファントム・スタジオ
原題:헤어질 결심/英題:Decision to Leave
2022 年|韓国映画|シネマスコープ|上映時間:138 分
© 2022 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM. ALL RIGHTS RESERVED
男が山頂から転落死した事件を追う刑事ヘジュン(パク・ヘイル)と、被害者の妻ソレ(タン・ウェイ)は捜査中に出会った。取り調べが進む中で、お互いの視線は交差し、それぞれの胸に言葉にならない感情が湧き上がってくる。いつしか刑事ヘジュンはソレに惹かれ、彼女もまたへジュンに特別な想いを抱き始める。やがて捜査の糸口が見つかり、事件は解決したかに思えた。しかし、それは相手への想いと疑惑が渦巻く“愛の迷路”のはじまりだった……。