第78回ヴェネチア国際映画祭の金獅子賞受賞をはじめ、世界中の映画祭を席巻している『あのこと』が全国で公開中だ。映画の原作は、今年のノーベル文学賞を受賞したフランス人作家アニー・エルノーが自身の体験をもとに綴った短編小説『事件』。人工妊娠中絶が違法だった1960年代のフランスを舞台に、望まぬ妊娠をした大学生の主人公アンヌが、自らが願う未来のために奔走する12週間の孤独な闘いを描く。全編がアンヌの目線で展開する本作では、彼女と同化するようなカメラワークから得られる圧倒的な没入感も話題だ。主演のアナマリア・ヴァルトロメイのインタビューに続いて、先日開催されたフランス映画祭2022横浜のために来日したオードレイ・ディヴァン監督に、撮影の舞台裏や作品への思いを聞いた。
――作家のアニー・エルノーさんが1960年代に体験した出来事を綴り、2000年に発表した小説『事件』を、なぜこのタイミングで映画化しようと思ったのですか?
オードレイ・ディヴァン監督「あの本を手にしたきっかけは、私自身が妊娠中絶を経験したことでした。自分が経験したことについて考えを深めたいと思い、アニー・エルノーさんの『事件』を読んだのです。あの小説に出会ってから、私はずっと心の中でその内容を蒸し返すように思い出していました。そして、1年半ほど経ったところで、ようやくこの物語を映画化しようと決心しました」
――映画化するにあたって、アニー・エルノーさんには相談されましたか?
オードレイ・ディヴァン監督「実際にお会いして、まずは一緒に物語の展開を時系列にして考えました。その後、本の中ではあまり明確に書かれていなかった社会的な側面や政治的な側面について、彼女が説明してくださったんです。当時は妊娠中絶が違法行為でしたので、法律に触れるということの恐怖についても話してくださいました。それから、私の書いた脚本を読んで、60年代には存在しなかったものや、時代背景が少しミスマッチな部分などを指摘してくださったんです。基本的には自分が想像する60年代を自由に描くことができたのですが、完全に間違った描写があるときは教えてくださいました」
――本作は全編、主人公アンヌの目線で描かれています。常に彼女を追っているカメラワークも手伝って、その焦りや孤独や恐怖がとてもリアルに伝わってきました。主演のアナマリア・ヴァルトロメイさんの演技が本当に素晴らしかったですが、彼女をアンヌ役に抜擢した理由は?
オードレイ・ディヴァン監督「アンヌ役はオーディションで選んだのですが、アナマリアのオーディションのときは、まるでお互いの役割が入れ替わったかのようでした。というのも、彼女は私の質問に答える代わりに、どんどん質問を投げかけてきたんです。例えば、『劇中には裸にならなければならないシーンがあるようですが、監督が考える、この人物が裸になる必要性についてお聞かせください』というように。そんな感じで次々と質問されたので、顔には出しませんでしたが、私は心の中でちょっと微笑んで、『この子はアンヌらしいな』と思いました」
――先日、アナマリアさんにもインタビューさせていただいたのですが、とても聡明な方ですね。彼女はアンヌについて、監督と一緒に作り上げた役だと話していました。アナマリアさんとの仕事で、特に印象に残っていることはありますか?
オードレイ・ディヴァン監督「アナマリアは非常に明るくて、オープンで、外向的な性格です。でも、劇中では、あの素敵な笑顔は封印するように伝えました。例えば、アンヌが男の子と戯れているシーンでも、笑顔は内側に留めておいてほしかったんです。映画の最後まで取っておくようにお願いしました。ですので、アナマリアとの仕事における最初の課題は、あの笑顔をどう抑制するかということでした」
――演じるのも演出するのも難しそうな役ですが、彼女からは、まさに闘い切ったという印象を受けました。
オードレイ・ディヴァン監督「例えば中絶のシーンでは、当初はアンヌが痛みから叫び声を上げる予定でした。でも、一度試してみたらシーンとして成り立たなかったんです。そこで、私とアナマリアが向かい合って座り、別の方法を模索していきました。『空気が薄くて窒息しそうな状況を想像して、呼吸してみて』というように。まずは私がやって見せて、それを彼女が真似て。そんな感じで一緒に演じていき、お互いが相手の鏡になるような形で、ちょうどいい表現を探っていきました」
――本作には臨場感あふれるフィジカルにつらいシーンもありますが、沈黙の中で心の揺れが感じられるような、一見淡々とした中での心理描写も見事です。著者が自分の心情を淡々と綴った、原作の文章ともリンクしているように感じました。
オードレイ・ディヴァン監督「それはアニー・エルノーさんの個性なんです。彼女は一切、感傷的にはなりたくない人で、感情がないわけではないのだけれど、それに身を委ねることはしません。自分の意志や意図を先に立たせることで、前に進むことができる人なのです。ですので、この映画にも彼女のそんな一面が映し出されたのかもしれません」
――日本では母体保護法によって一定の人工妊娠中絶が合法化されていますが、中絶について話す機会は多くありません。映画の舞台である60年代と比較して、フランスにおける中絶に対する考え方はどのように変化していますか?
オードレイ・ディヴァン監督「フランスでももちろん、現在は妊娠中絶が法律で認められていますが、決して闘いが終わったわけではありません。直近ですと、女性が中絶する権利をフランスの憲法に入れるという議論が持ち上がって、下院では可決されたのですが、上院では否決されたばかりです。60年代と今を比較すると、女性は比べものにならないくらい平等な権利を獲得しています。でも、まだ先は長くて、とてもじゃないですが完全な平等に到達したとは言えません」
――今年はアメリカの最高裁判所が「中絶は憲法で認められた女性の権利」と定めた49年前の判決を覆したことにより、複数の州が中絶に関する規制を厳格化する方針を表明したことが大きな話題となりました。本作は先日、ニューヨークで開催されたゴッサム・インディペンデント映画賞で外国語映画賞を受賞したそうですが、アメリカの観客の反応はいかがでしたか?
オードレイ・ディヴァン監督「アメリカで上映会に立ち会ったのですが、終映後に若い女性が何人か私のところに来て、『これは私たちの物語です』『いつか私たちも中絶を試みて死ぬかもしれません』と言われました。彼女たちの声を受け止めて、かなり重い心で会場を後にしたことを覚えています」
――また、今年は原作者のアニー・エルノーさんがノーベル文学賞を受賞しました。ちょうど本作を観た後に受賞のニュースを知ったのですが、自分の未来のためにたった一人で闘った劇中のアンヌの姿と重なって、本当にうれしく思いました。
オードレイ・ディヴァン監督「映画を思い出していただきたいのですが、最初の方に女性が縫い針を持っているシーンがあります。そして、中盤では編み針を持っているシーンがあり、最後はペンを持っているんですよね。つまり、あの後、女の子はペンを手に自分の道を切り拓き、もちろん劇中では描いていないですが、最終的にノーベル賞を受賞するところまでたどり着いたわけです」
――ついに『あのこと』が日本でも公開されましたが、これから映画を観る日本の観客に伝えておきたいことはありますか?
オードレイ・ディヴァン監督「この映画が日本で公開されたおかげで、日本に行くという私の長年の夢が叶いました。この作品を通して日本に出会うことができて、とてもうれしいです。日本の観客のみなさんが私の作品に出会い、何か感じていただけたら幸いです」
――映画の舞台は1960年代ですが、人工妊娠中絶というテーマは残念ながら過去のことにはなっていません。直視するのがつらいシーンもありましたが、現代を生きる私たちが観るべき映画だなと感じました。
オードレイ・ディヴァン監督「そうですね。本作は映画として、奇妙な運命を背負っている作品です。当初、私がこの映画を作りたいと言ったとき、『なぜこんなテーマの作品を撮りたいの? 今さら必要ないでしょう?』と、多くの人に反対されました。でも、いざ映画が完成して公開されたら、あなたがおっしゃるように、『今こそ観るべき映画だ』と言われたんです。それはつまり、世界が悪い方向に変わりつつあるということ。今はあまり良い状況とは言えないですし、本作が会話のきっかけとなることを願っています」
text nao machida
アンヌの毎日は輝いていた。貧しい労働者階級に生まれたが、飛びぬけた知性と努力で大学に進学し、未来を約束する学位にも手が届こうとしていた。ところが、大切な試験を前に妊娠が発覚し、狼狽する。中絶は違法の60年代フランスで、アンヌはあらゆる解決策に挑むのだが──。
『あのこと』
全国順次公開中
https://gaga.ne.jp/anokoto/
監督:オードレイ・ディヴァン
出演:アナマリア・ヴァルトロメイ『ヴィオレッタ』 サンドリーヌ・ボネール『仕立て屋の恋』
原作:アニー・エルノー「事件」
配給:ギャガ
2021/フランス映画/カラー/ビスタ/5.1ch デジタル/100 分/翻訳:丸山垂穂
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