NeoL

開く
text by Daisuke Fujiwara
photo by Yudai Kusano

真夜中の物語/Midnight Stories :Daisuke Fujiwara 生きる、メンヘラ。

金原ひとみ ”オートフィクション” に寄せて




『死にたい。』

超チープな遭難信号、メンヘラの常套句。9割方の人間はうぜぇなと嘲り鼻で笑うか、まぁ気にも留めない。いや死にたい、を垂れ流すわたし自身の反応でもあるので10割の人間がそう思うのだろう。覆いかぶさる下らない自慢やら不満でもう私のSOSは1メートルほど下に埋もれてしまい、1メートルを2秒でスクロールしてみると嗚呼くだらない、ふぁぼもつかないしツイ消しするか、、、ここらへんで「死にたい」はひとまず消化される。
これは鬱病の代表症例ただの希死念慮なのか、暇つぶしか、ちょっと不安定なわたしを演出する小道具なのか。ただ一つ確かなのは死にたい!と思った事実である。わたしの感情をわたしが事実、というのだからこれは真実。痛い恥ずかしい。だがそれを痛い恥ずかしいと言えるのはわたしだけであって他人にはどう判断しようもなく、メンヘラという実態のない言葉で済ませられるわけがない。



『気が付くと、世界が発狂していた。』

心の奥底には哀れみ慰められ、全然大丈夫!という間違った日本語を振りかざしてメンヘラ劇場に幕を落としたい気もあるがそれは希望ではなくただのシナリオ、実現したところで何の意味もなく死にたいと思った事実がただ残るのみ。だったら発信しなければいいがそれはSNSを作った奴が悪いマークザッカーバーグが悪いわたしは悪くない。こんなことまで考えといて死にたいもクソもねぇだろ腹立つウザい死ね自分死ね!あ、それ「死にたい。」じゃんやっぱ間違ってなかった。ここまで終えると大体アカウントを切り替えてエロ垢へ、今晩のオカズ探しへと移行する。
いつだってそうだ、勝手に発狂して勝手に泣いて勝手に死にたいのはわたしだ。



『死ぬ危険のない場所も時間も、誰一人として持っていない。人々はそれを忘れている。人々は少なからず自分は明日も生きているものだと想定しながら生きている。』

メンヘラというような言葉は日本にしかないらしい、自殺大国日本はめんどくさい存在を言語化し理解するふりをして健康的な国家を建設してきたのだろう。だが実際、メンヘラは死ぬ。
去年の今頃、ツイキャスで電車への飛び込みを配信したJKがいた。直前のインスタグラムには鏡越しの自撮り動画に「だから、私をみて!」と書かれた投稿。セーラー服、パンティーが見えそうで見えない角度、黒髮ぱっつんにインナーカラーのピンク、左手にiPhone右手にピースサイン。「だから」というのは接続語であって接頭語ではない。哺乳瓶型のiPhoneケースが可愛いから見て!ということでもない。死にたいからだ、死にたいから見て欲しい。たまたまほぼリアルタイムで配信を見てゲロまみれのわたしがすぐさまチェックしたこの投稿は確か100回再生くらい、ちゃんと見た。大丈夫。
幼い頃から死、というものに対して異様なまでに敏感だった。チョー気持ち悪い。気持ち悪いことはしたくない!でも死にたい。これは希死念慮でも遭難信号でもなく、生きている確認。きっと死んだら死にたいとは思えないし、死にたい!という感情こそわたしが生きている証拠なんだろう。



『霞んだ視界に手をかざすと、その手が発光しているように見えた。でもそれは、発光しているように見えたという事でしかない。』

明け方の太陽やつまらない蛍光灯、クラブの照明なんかに手をかざして指と指の間から漏れる光に恍惚とするタイプの人には金原ひとみの小説を勧めたいしこの記事を読んで正解だと思う。ほとんどが下らない恋愛(セックス)小説でそれもどうしようもないマンコしか出てこない。恋愛経験ゼロで恋愛を馬鹿にすらしているわたしには理解できないことばかりだが、”蛇にピアス”の映画を見てカッケー!と原作を読み、しばらくして古本屋で真っ赤な装丁に惹かれてジャケ買いしたこの”オートフィクション”は涙と手汗でボロボロにされつつ2度の引越しを共にした。気分を落とした方が精神衛生上よい、と判断した時は彼女の圧倒的な文章の美しさとやさぐれた世界にトリップしてどこまでも深く深くおちていく。なんだか理解させようとしてくる創作物が多すぎる現世において、おかしな妄想癖に悩まされる我々にとって、自分勝手なカスタマイズの許される小説というのは大正義である。さらには生と性、歌舞伎町や18歳など彼女の小説の背景には見覚えがあるから惹かれるのかもしれない。



『何だこの恐怖。きょうふかーん。叫びながら踊っていると足ががくがくした。気持ちいい恐い死にたい!この私の喘ぎ声よ天まで届け。』

エスカレーター式でなんの苦労もなく大学へ進学したわたしは、マンコのヒステリーに身を任せて包丁を突きつけてくる母とそれに抵抗してしまう短絡的な自分に嫌気がさして超一等地の実家から逃げ出す。潮時というものをしっかり確認した、もう潮は満ち満ちていた。あー溺れる、、、。幾度かの家出経験で新宿の都合いいカプセルホテルを知っていたし、行くあてが無ければ歌舞伎町へ、というのは私のカッコつけマニュアルに従ったまでだった。そこそこ破滅的な生活をしつつ、名の知れた私立大学に通い何事もなかったように友人と遊ぶのは気分が良かった。ほとんどの人がカッコいいとする要素の中に破滅的という項目がある。ドラッグや酒、DV彼氏とのどうしようもない恋愛、非現実的ビッグドリ〜ム、軽犯罪などのクズエピソードは自慢げに語られがちだ。自分しか自分を愉しませてあげられる存在がいないのならワル酔いも悪くない。ペットショップの檻まがいなカプセルのドアが開き面倒くさそうな顔の警官が覗き込んできたとき、わたしの自己破壊願望もある程度満たされた。漏れなくわたしもクズだった。

『つまり、私は素晴らしくない? それはまた別の話だ。基本的に、私が認めたくない話は別の話だ。』

地球上にはもっと不幸が溢れているのは知っている。わたしは恵まれている。小学校では給食の前に日替わりでお祈りをさせられ「フィリピンの恵まれない子供達が幸せになれますように」という文句が使い回されていた。フィリピンの子供達が恵まれていないのか何様のつもりなのか何もかもが謎だが、誰か自分よりも不幸な人を想定することで自らの幸福に感謝していた。大人になってもそれをしている奴はたくさんいる。わたしがいま食前感謝の祈りをさせられるとしたらこうだ。「フィリピンには恵まれない子供達がいるのかもしれないし地球は滅亡に向かっているのかもしれないけれど、わたしはわたしの世界を生きていてそのわたしがツラいというならわたしは不幸だしマブいというなら超可愛いのですわたし最高アーメン!」



『世界の規定は私がする。他の誰かが規定している世界は私の世界ではない。世界は無数に存在する。』

人間はそれぞれ自分の世界を生きていてそれらは決して交わることはない。「みんな違ってみんないい」「価値のない人間なんてひとりもいない」などという神様ジョークを真に受けるのはなんて愚かなことだろう。別の世界にいるのだから良い悪いもなければ、わたしが所有する世界でわたしが価値がないとしたならそれは完全に価値がない。だからといって価値を決めることはわたしの世界で完結し、それを非難する事も利用する事も他の世界を交えてはいけない。こんな当たり前なことをできずにいる人間が多すぎる。自分の価値観を表現する行為はアートと呼ばれることがあるが、それはあくまでも自分はこう感じたこう思うこうしたい、という一主観の提示であってそれ以上の見返りを求めるのは傲慢だ。他の世界を無理矢理巻き込んだ馴れ合いほど気味が悪いものもない、所詮人間、そんな高度なことは不可能だから。



『数億もの私が私の中に生きているため、私の言う事も考えている事も矛盾ばかりだが、それは包みの中の私たちが引き起こした矛盾でしかない。そう割り切れればまだいいが、結局のところ中身の私たちが引き起こした矛盾の責任をとるのは私だ。』

深い淵を見つめるとき、そんなわたしを更なる上から見ているわたしがいる。すごく真剣なわたしを指差して嗤っている。アンビバレンス!矛盾に耐えられない。指差す先には歴代わたしのホログラムが出現したりもする。両親のケンカをリビングのガラス戸から覗く幼稚園の、人と自分は違うと確信した中学生の、はじめて男に抱かれた大学生の、色んなわたし。過去という歪んだ虚構は嘘ではない。そいつら全員を無理矢理ごちゃ混ぜにして統合させ、一気に離散させる。一番の苦痛はわたしという実存在をひとりに定めなくてはならないことだ。サイバーパンクの世界のように様々な自分をプラグインにして差し替えることが出来たなら人生は楽になるだろう。そうはさせてくれないから面白いし辛いし死にたい。わたしは全てのわたしを赦すしそれぞれに愛をもっている。



世界は優しさに満ちている。そう思いたい私がいる。しかしそう思えない私もいる。結果が全てのこの世の中、そう思えない私がいるということは、世界は優しさに満ちていないという事だ。』
誰しもがメンヘラを飼っている。脳ミソという大宇宙には病み期がしっかりとプログラミングされているのだ、暗い衝動に包まれ全てがどうでもよくなるくらいは人類共通の生理現象だろう。こんな浮き世では病まずにいられるほうが正気の沙汰ではないし恐ろしい。わたしはいたって正気だ。
人間に強さ/弱さがあるとすれば、弱さを認めずに強くなることはできない。それくらいのことは週刊少年ジャンプで学んでるんじゃねぇのか、読んだことはないがそうあって欲しい。弱さとは自分の本質である、強さは獲得し偽ることもできるが弱さはそれらを許さない持ち合わせたものだから。オナニーライフにて本質を認めてあげないドSプレイを買って出ても痛いだけ。強がりと強さ、は月とスッポンの最上位互換であり完全なる別物である。弱さを曝け出せる才能をメンヘラ認定し、強がりを強いと勘違いする社会のシステムは変わらない。だが弱さを認めた途端に自分を強く変化させることができる、これはそこそこ凡人な私の経験則なので間違いない。降参し地にひれ伏したときにようやく気付くことができる地球との距離感があるのだ。
救いはいらない、メンヘラは強い。

『私は死なない絶対死なない一生死なない私は不死身だ。私はきっと、自分自身で自分自身を変化させていく事ができるだろう。』











口承、書物、インターネット、様々な形式はあれど、人々は昔も今も“物語”を求めている。物語は人々の糧や指針、支えとなり、時に孤独を癒し、時に憧れや憎しみを生みながら、人々に寄り添い続けてきた。現在のSNSも自分の物語を語り、また人の物語もまた指先一つで瞬時に覗き見ることができるツールとして爆発的に広がりを見せたと言えるだろう。『真夜中の物語』特集ではそうした中でも、私たちが自分の内なる深遠さを覗き込む真夜中という時間に生まれる物語、真夜中に寄り添う物語などに焦点を当て、人との関わりから離れた時間にこそ浮かび上がる自分自身を見つめ直す。ひいては他者との関係に終始晒されている現代において、自分の時間をもち、思考、想像、創作する大切さを改めて考えたい。
glamhateデザイナー/メイクアップアーティストDaisuke Fujiwaraに、真夜中に想いを馳せる文章について、またヴィジュアルでの表現をここに披露してもらった。



photography Yudai Kusano
model NUGA TORYFIERCE
text Daisuke Fujiwara


フジワラダイスケ/Daisuke Fujiwara
NUGA TORYFIERCE、メイクアップアーティスト、GLAMHATEデザイナー、PETRICHORコントリビューター。
https://twitter.com/__nuga__
https://www.instagram.com/nuga.jp/

RELATED

LATEST

Load more

TOPICS