今日もカーラジオでAFN放送を聞いている。
相変わらず、ニュースはコロナヴァイルスばかりだ。その発音を真似続けた僕は、今後基地に住むアメリカ人たちと話す時に、自信を持ってコロナヴァイルスと口にできるだろう。アメリカ人たちは、おっ、こいつ英語が上手いのか?などと勘違いし、どネイティヴなスラングやらスピードやらで、コロナヴァイルスについて語るのだろうが、僕は曖昧な相槌を打ちながら、どうやって話を切り上げようかと考え始めるに違いない。
コロナヴァイルスが僕にもたらしてくれたものの1つは、正確な発音と、英会話でのその場をしのぐ術を若干アップさせてくれたことになる。
ところで、彼ら(コロナヴァイルス)には、別名があって、よく知らないが、きっとそちらが本名なのだろう。それはCOVID19という。
なんとなく字面で知っていたが、シー・オー・ヴイ・アイ・ディー・ナインティーンと心の中で読んでいたのだが、AFN では、コーヴィッド・ナインティーンと読んでいた。そのままであるが、なぜか僕は馬鹿みたいにアルファベットを一字ずつ読んでいたのだ。
このCOVID19 は、最近コロナヴァイルスに取って変わりつつあるようで、AFNでは、間違いなく綺麗なお姉さんはCOVID19を使いたがっている気がする。もしくは、知的なレポーターたちや、1日に飲むべきコーヒーの量を理解している抑制のある人たちは、断然COVID19派なのではないか。
そんなことどうでもいいじゃないか、と大抵の人は思うだろう。僕も内心の80パーセント以上はそれに同意する。
だけど、潮目の変化というのは、こういった日常のどうでもいいような部分に最初に現れるのではないか、とも思う。
はっきり言って、みんなコロナヴァイルスにうんざりなのだ。飽き飽きしているのだ。だから、せめて、呼び名ぐらい変えてみようじゃないか、となるのだ。コロナヴァイルスって、ヴァの部分がなんだか下品だし、COVID19の方が学術的な感じがして、自分が冷静さを保てるような気がしないだろうか?もっと落ち着いて、感情的にならずに、このやっかいな現実から、ましな未来へのアプローチを、PCのキーボードを見ずに出来そうな気がしなだろうか。
とはいえ、COVID19にも落ち度はある。ガソリンスタンド脇のコンビニで長距離ドライブ後に手を伸ばしたくなるエナジードリンクの名前に似てないだろうか?だとしたら、僕らはエナジードリンクごときに翻弄されていることになる。記号性の高い名前は、もし不機嫌な時に目にしたら、受験勉強の馬鹿馬鹿しさを思い出してしまうかもしれない。あんなに元素の名前を暗記したのに、なんてこった!と。
とにかく、AFNでは、トレンドは完全にCOVID19だ。だが、発音は比較的簡単なので、僕もそれをいちいち復唱したりしないで、聞き流している。もはや、アルファベットを一字ずつ読むことは、来世でもないだろう。
非常事態宣言が、さらに一ヶ月延長されたことは、嘆かわしいが、仕方がない。僕は、日々できることを、淡々と進めることにした。
朝のジョギング散歩は継続中で、例の猪豚(アグー)小屋を毎日通り過ぎては、母と赤ちゃんの様子を気にかけている。赤ちゃんアグーは日毎に大きくなっている、なんてことはなく、永遠に赤ちゃんでいてほしいという僕の願いを知っているのか、サイズになんの変化もなく、愛くるしい小ささで毎朝僕の心臓を射抜いている。動物の赤ちゃんは、みんな可愛いのに、なんで幼虫の一部はあんなに怖いのだろう。
そんな赤ちゃんアグーとお母さんの姿に、毎朝癒されていたのだが、彼らに心臓を射抜かれている人間は他にもいた。
ある朝、いつものようにアグー小屋へ差し掛かると、僕と同じくらいの年齢にみえる作業着姿のおじさんが、手近な所から刈り取った草をアグー母子に与えていた。そのおじさんに声をかけ、話しているうちに、僕もジョギング散歩を中断して手伝う流れになった。
おじさんは、小さいけれどがっちりしていて、この土地の生まれだと言った。彼が与えている草は、ヤギ草といって、名前のとおり、ヤギの好物なのだという。アグー母子は、ヤギのお気に入りをもしゃもしゃと美味しそうに食べ、柔らかな葉を咀嚼する音は、僕がサラダを食べる時の音と同じだった。
おじさんの説明によれば、ここのアグーは数人の愛好家によって株式で世話をされていて、程よく育ったら食べられてしまうということだった。
僕は、少なからず動揺した。ここのアグーたちの行く末は、大方そんなことだろうと予想はついていたが、事実として知ると、やはり動揺した。
僕は、話題を少し変えようと、最近までここにいたオスのアグーの行方について聞いてみた。おじさんは、あれは捕まったよ、そして食べられた、公園の管理事務所の人間がそう言っていた、というようなことを口にした。
捕まった、食べられた。そうか、やはり結局は食べられたのか。僕は赤ちゃんアグーと目が合い、つい逸らした。君のお父さんは、脱走して、捕まって、食べられた、のだ。
僕のジョギング散歩の習慣は、その後も継続中だが、その餌やりおじさんには、それ以来会っていない。きっと僕の知らない時間帯に、近場の草を刈って、道路より一段高い場所にあるアグー小屋へと手を伸ばし、サラダを与えているのだろう。
ある朝、僕がアグー小屋へと差し掛かると、いつもなら別の畑の前で、コンビニ弁当を朝食にしているサングラス姿のお爺さんがいた。車の中からサムアップとスマイルで僕を迎えてくれるそのお爺さんは、その時もやはりサムアップして、微笑んでくれたので、僕も同じ仕草をいつものように返した。だが、なんとなくだが、お爺さんのサムアップがいつもと違う色を帯びているような気がした。その朝に彼と出会った場所が、いつもと違ったからかもしれない。そう解釈しても、なんとなく違和感は残った。彼は、なぜいつもの場所でコンビニ弁当を食べておらず、アグー小屋の前に何もせずにいたのだろうか。
僕は、サムアップお爺さんのことと、さらに、餌やりおじさんのことを、交互に思い返しながら、朝食が待つ家までの残りのルートを走ったり歩いたりしながら戻った。
AFNでは、覇権を掴んだかに思えたCOVID19だったが、数日後にはコロナヴァイルスが再び力を取り戻してきた。
それは、旧勢力と新勢力との代理戦争のようでもあった。わたしはCOVID19を使うわ、というお姉さんと、そうはさせまいとする上司がコロナヴァイルスと声高に叫びながらパワハラを仕掛けている。現場では決してそんなことはないのだろうが、そう思わせてしまう新たな潮目だと、僕は1リスナーとして、ハラハラしてしまう。
放送前の打ち合わせでは、当番組はコロナヴァイルスで統一していこう、と上司がきっぱりと宣言し、部下たち(綺麗なお姉さんが属している)もそれなりな表情でうなずく。だが、生放送が始まってしまった時に、うっかり綺麗なお姉さんが、COVID19と言ってしまい、しかもその口調は、ルームメイトのタイ人のアクセントで最後の19をナインティーーーンと語尾を不必要に上げまくってしまった。ガラスの向こうで上司が頭を抱えながら四文字で罵る。
そんな世界と並行して、父のいなくなった小屋で暮らす母子アグーの世界も存在している。
僕は、ある種の癖で、注意を向ける対象に、自分が入れ替わって感じてみようとすることが多い。
アグーの母になる。
毎朝、口笛で呼びかけてくる息を切らした人間のおじさんがいる。(言うまでもないが僕のことだ)じっと見つめては、微笑んだりするが、その表情は早朝の顔のつっぱりのためかぎこちなく、わざとらしくもある。
時々近くに生える柔らかな草を与えてくれる人間もいる。ぶつぶつ何かをつぶやきながら、満足そうにしている。
目の前に車を止めて、こちらを見上げてくる人間もいる。サングラスをかけているため何を感じているのか分からない。
きっとアグーの母には、人類のウイルス難など知る由もない。だが、動物的な勘で、人類が不要不急な分断下にあることは感じているかもしれない。
僕は、アグーの母になったまま、アグーが考えそうもないことまで考えてしまう。つまり、分断の対語は何だろうか、など。
分断の対語は、統合、調和なのだろうか。きっと統合ではないだろう。統合は満期を迎えたら、新たな分断を生む。それは人の歴史が示している。
では、調和なのだろうか。残念ながら、それは理念や宗教の中にしか存在しないマシュマロのようだ。
では、何か。アグー母のままで僕は考える。
雨上がりの今朝、僕はいつものようにジョギング散歩に出た。
いつものように、アグー小屋に差し掛かる。
僕は動揺した。赤ちゃんアグーの姿がなかった。
僕はアグー母と見つめ合う。
僕はアグー母と入れ替わる。
目の前の人間の男は、今朝は口笛を吹かなかった。目が悲しげだ。
僕は、アグー母から出て再び人間の自分へと戻る。
祈りはいつだって、平凡な言葉に支配されている。
アグー赤ちゃんが無事でありますように。
#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある