『82年生まれ、キム・ジヨン』は韓国で2016年秋に出版され一年後には販売総数百万部を記録した。韓国の人口が約5200万人と考えると本書がなぜ“社会現象”とまで呼ばれる作品たるかうかがい知れるだろう。また男性の国会議員が全議員に本書をプレゼントする場面が見られた一方で、K-POPアイドルグループRed Velvetのメンバー、アイリーンが本作について言及したことでバッシングを受けるなど、様々な社会的反響を生んでいる。その影響は国内のみでなく、日本でも現在八万部が手に取られるというアジア文学のみならず海外文学史上でも異例の販売状況で、国を越えて大きな波紋を呼ぶ一冊となっている。今回は2月19日紀伊國屋ホールにて行われた、本書の著者チョ・ナムジュ、翻訳を手がけた斎藤真理子、『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』の翻訳者の一人であるすんみ、そして芥川賞作家川上未映子によるトークイベントの様子をレポートし『82年生まれ、キム・ジヨン』を通して日本と韓国の社会状況がいま抱える問題を改めて再考する。
まず『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだ所感をたずねられた川上は、本作が女性が社会で生きていると経験する“あるある”によって物語が構成されていると分析。著者と同世代の女性作家としての目線から日本文学との比較も交えながら、キム・ジヨンという一人の女性の半生を語る上で精神科の男性がストーリーテラーを担うことの効果について話した。
川上「追いつめられてボロボロになって、大変な状態の女の人がやって来て専門家が長時間かけて彼女の話を聞いても、男性的な言語、男性的な体験からは、このようにしか記せないのだということを指摘しています。症例のカタログのようにしか記述できないわけですね」
川上の話を受けたチョ・ナムジュは、作中に引用されるニュースや統計データを物語内に違和感なく組み込むためにこの構造を用いたと解説。また、女性であれば誰しも経験しうるエピソードによって一人の女性の半生を再構成する作品にするため、ネット掲示板で女性の書き込みを見たりルポやインタビューを読んでエピソードを収集したと語った。また、大きな反響を呼ぶ最後の精神科医の衝撃的な発言について、一部の読者からの「あまりにも悲観的なのではないか」という声とは裏腹に、悲劇的なラストにする意図ではないと筆者としての思いを明らかにした。
チョ・ナムジュ「自身の業務に関しては、女性の不利になる判断をしてしまうという結論を示すことで、当事者でない男性たちが女性問題において理解を持っていたとしても、何かを決めたり選択することに限界があるのではないかということを示したかったのです。より広い範囲で、共にこの問題を考え、共に悩みながら、どうしたら制度や慣習を変えていけるのかということを提案したくて、このような終わり方になりました。」
『私たちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない』の翻訳者すんみは、本書を読了後すぐに友人たちに「読んでみて」と連絡したという。そしてSNS上でも彼女同様周りに薦め、お互いに意見を交換したという書き込みが多くみられたことについても触れ、本作の”あるある”エピソードによって築かれた構造こそが読者の共感性に訴えたことが記録的な大ヒットにつながったのではないかと考察した。
また川上は、社会の歪みに対しキム・ジヨンが起こす反応はどれも自然で間違いが一つもないことも指摘し、社会的正しさへの姿勢も本作の大きな魅力のひとつとして挙げる。これを受けチョ・ナムジュは小説家として正しさと向き合った背景についてこう語った。
チョ・ナムジュ「出発点は、“小説を書きたい。では、どんなテーマを描いていくか”というところから始まっているのではなく、”女性の人生を書きたい。それも私と同世代を生きている、同じ悩みを抱えながら生きている女性の人生を、歪めることなく、卑下することなく、非難することなく、ありのままに書き記したい、書き残したい”という思いでした」
さらに“正しさ”への強い欲求が感じられる作品は本作をはじめ多くの韓国文学に見受けられる理由としてチョ・ナムジュは、民主化を遂げた韓国社会における変動がもたらした文学への影響によって90年代以降は人間の内面を深く掘り下げる作品が多く書かれるようになったと説明。続けてろうそく革命(2016~2017年韓国で起こった政変。朴槿恵元大統領に対し退陣を求める大規模なデモが発生した)における人民の行動によって起こった政権交代や、セウォル号事件(2014年大型客船セウォル号が転覆、沈没。この事故で修学旅行中の学生らを含む計304名の犠牲者を出した。事故発生当時、避難誘導や救助活動の問題があったことが発覚)という、近年の韓国社会が経験した社会共通の変化の実感こそが”社会的な共感体”を形成したのではないかと語った。
現在、表現における社会参与の仕方を個々の作家が多様な方法を試みているところだと言う斎藤は、いま現在韓国社会が抱える問題の一つとして女性を取り巻くフェミニズムであると指摘。国家の大きな物語と個人の小さな物語が衝突しているなかで『82年生まれ、キム・ジヨン』が大ヒットしている現状は、この問題の切実さを大きく象徴していると分析した。
チョ・ナムジュが表題作で参加しているフェムニズム短編集『ヒョンナムオッパヘ』もそんな社会の空気感を汲み取ってできた作品のひとつである。本イベントの終盤、本作のタイトルにも使われる“オッパ”という呼称について話題が及んだ。
本来は女性が親族内の年上の男性に対して用いられていたこの”オッパ”という呼称だが、すんみの解説によると1993年に放映された『母の海』というTVドラマで彼氏をオッパと呼ぶシーンがあったことをきっかけに、近年では彼氏に対しても使われる呼称として広く普及したという。しかし、この呼称が社会生活で一般的に使われるようになった現状に違和感を感じるというチョは、“オッパ”という言葉が浮かび上がらせる家父長制がはらむ問題について、男性が持っている権威や力をある種ロマンティックに包装した呼称なのではないかと考察した。
川上も夫を対外的に呼ぶ際に“主人”という言葉に主従関係的なアンフェアさを以前から感じていたと応え、日本社会も韓国社会同様に家父長制を引きずっているのが現状だと話した。これに対し、チョは「いまでも、そんな呼び方が使われているんですか」「“オッパ”という呼称について語っている場合ではないような気がします」と戸惑いの様子。「呼び名の問題を含め、私たちがこれまで当然だと考えて受け止めてきたさまざまなこと、そういった経験や呼び名の問題、それらをもう一度考え直す、私たちが経験したことをみんなで分かち合える機会になったのではないかと思いますし、今後さらにそうなっていってほしいと願います」と力強く語り、会場からは大きな拍手が送られたところでイベントは締めくくられた。
性差による多くの不平等と差別の問題を共通して抱える日韓社会。日本では最近でも大手商社元社員による就職活動中の女性への性的暴行など、目も疑うニュースが日々絶えないのが現状である。キム・ジヨンという一人の女性に内在する世界は、今一度私たちが生きている社会の構造や慣習を振り返る大きなきっかけとなっている。
text by Shiki Sugawara
『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)
著 チョ・ナムジュ
訳 斎藤真理子
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『ヒョンナムオッパへ:韓国フェミニズム小説集』(白水社)
著 チョ・ナムジュ他
訳 斎藤真理子
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