オトナになるという境界線は、公的には”20歳(もうすぐ18歳に引き下げ)“となっているけれど、もちろんその年齢になったからといって突然に精神が成熟するというわけではない。なんなら、20歳を超えてもまだオトナになりきれていな人はたくさんいるようだ。じゃあ一体”オトナ”ってなんなのか。確固とした定義は難しいけれど、自分だけの換えのきかない毎日をしっかりと歩むことの延長線上に、自分なりの答えが見つかるかもしれない。
進路が少しずつ重きを増してきて、身体も気持ちも毎日少しずつ変化する14歳の頃、いま楽しく仕事したり生活している先輩たちはどんなことを考えて、どんなことをしていたんだろう。そんなファイルを作りたいと始まった「14歳」特集に、下北沢Garageのオーナー、渡辺新二が登場。数多くのアーティストに愛され、ライヴハウスというだけにとどまらず、そこから派生する音楽仲間や作品も多いことから“サロン”的な役割を果たしているこの場所を作り、育んできた彼はどんな人生を歩んできたのか。
――1994年に下北沢Garageをオープンされて、来年で25周年を迎えられるのですよね。開始当初のお話からおうかがいしたいのですが、どういった経緯でスタートされたのでしょうか。
渡辺新二「わかりやすく言えば脱サラになるのですが、もともとその10年ぐらい前にスタジオ経営に役員として関わっていたんですね。それを多角経営にするということでライブハウスの責任者として赴任された先がGarageだったのです。しかし94年の段階で色々とトラブルが重なってしまい、オープン当初で赤字経営だったこともあって、ここを無くして私も解雇となってしまったんですが、自分でここを買うことにして経営を始めました。それが95年か96年のこと。買うことにしたのは愛着が芽生えていたというよりも、当時は音楽やる人間というのは“ライブハウスを自分でいつか持ちたい”という夢を持っていたものなので、その想いからですね。私はそれ以前からレコーディングエンジニアの仕事をしていて当時はプロを対象に仕事をしていたのですが、ライヴハウスを通してこれからの人たちであるインディーズとやっていく喜びを知ってしまったんですよ。メジャーの世界の大人の事情よりもインディーズの純粋に音楽をやっている人たちの方が芸術性は高いんじゃないか、と思えて」
――なるほど。Garageのオーナーとしてインディーズシーンの育成を考えられていたのですか?
渡辺「育成というのは、どちらかと言うと反対なんです。それよりも“一緒に作っていこう”という形。そのためにはライヴハウスとして、『仮面ライダー』で言えばバイク屋のオヤジだし『ガッチャマン』で言えば南部博士でありたいんです。古い例えになってしまうのですが(笑)」
――「名探偵コナン」で言うところの阿笠博士ですね(笑)。
渡辺「ええ、そういう導きのようなね。だから、ウルトラマンのような会社組織のイメージではないんですよ。そもそもお手本をやるには年齢が離れすぎてしまっているし。言ってしまえば時代も変わってきて昔よりは制限が増えてきてはいるけれど、“僕もヤンチャしたよ、それだけはやっちゃダメだよ”というノリですね」
――時代も変わってきたとおっしゃっていましたが、ミュージシャン像自体も変わってきていると感じますか?
渡辺「ヤンチャの質が変わってきていますよね。世代の隔たりがあって僕も理解しにくいのですが……道徳の価値観は時代とともに変わっていきますからね。そして音楽で活動するなら学歴は関係ないと言いつつも、今はほとんどみんな大卒なんですよね。かと言って昔を思い起こすと“カレッジ・フォーク”というジャンルがあったり、みなさん大卒なんです。でもTHE BLUE HEARTSと同世代である僕らにとっての音楽は“パンク”だったんですよ。イギリスでとんでもない奴らがいて、そういう育ちが悪い奴らがやるのがパンクというイメージだったけれど、今は金持ちの坊ちゃんがパンクをやる時代です。かと言ってそれは否定できないことですし、そんなのは違うよとも言えないですよね。僕も東京育ちなので例えば部落のような生まれながらにして差別を受けていた人たちの存在は知っていたにしても、実際目の当たりにしたのは30歳くらいになってからでした。そういう差別的なものがあったということさえ忘れ去られていっているのは良いことだと思うし、そもそもこんなことを口にできるようになったのも最近のことですから」
――そのような変化の中でGarageはミュージシャンたちのコミュニケーションの場であり、聖域であり続けていますが、なぜそのような存在になりえたのでしょう。
渡辺「そこにいる大橋(Garageスタッフ/大橋真由美)が一番大きいと思います。最近のライヴハウスの人たちは元プレイヤーだったりが多くなって、音楽を聴く立場の人が逆に少なくなってきているんです。で、元プレイヤーのみなさんは大御所になっていかれるので……やたらえばっている人が多いんですよ(笑)。でも、ライヴハウスに来る人は聴く立場なわけですから、その感覚がわかっている人間がいるというのは大きい」
――大橋さんはいつからこちらで働かれているのですか?
大橋「21年前です。ただいるだけで何もしていないですけれど(笑)」
渡辺「こういう人がいるから、経営者である僕が金のことをうるさく言う立場でいられるわけです」
――Garageをホームとするコミュニティが沢山生まれていることについて大橋さんがどう思われているのか聞きたいです。
大橋「出口(元Garage店長。現ペトロールズマネージャー/レーベルENNDISC代表の出口和宏)と三宅さん(ライター三宅正一)が大きいと思います。オープンから5年経って出口が店長になり、そこから10年やっていたのですがその頃にGarageの基盤ができたのではないでしょうか。ACIDMAN、スネオヘアー、レミオロメン、Base Ball Bearなどが当時はインディーズとして出ていました。三宅さんも沢山の出会いをもたらしてくださったから……これからもここがそうなっていければ嬉しいんです」
――これからのライヴハウスの在り方についてはどう考えていらっしゃいますか?
渡辺「ライヴハウスとしてよりは、音楽とともに生きている人たちの価値観がもう少し変わるためのことをしていきたいなと思っています。音楽で生計を立ててはいないけれど、プレイヤーとしては超一流の人たちは多くいますよね。ロックのような軽音楽と呼ばれるジャンルにいる人たちが趣味で音楽をやっていると、例え一流の技術があってもジャズなんかよりワンランク下に見られてしまっている。それをもっとジャズプレイヤー的な価値観にもっていけないかなと。どうしてもロックだとプロを目指すためという一点張りになってしまっていて、それはちょっとどうかなと思うんですよね。やり続けて自分の演奏や作品を極めて高めていきたい気持ちは、プロ・アマ問わず共通していますから、純粋にわがままに音楽をやっていく人たちがもっと増えていっても良いんです。ですから基本的には僕らライヴハウスはプロ・アマ問わず同じように接しているつもりですし」
――ああ、それはとても良い提案ですね。純粋にわがままに音楽をやり続けるためのアドバイスは?
渡辺「もっとみんな、生を観に行こうよということですかね。まだ僕が子どもだった頃は『書を捨てよ町へ出よう』(寺山修司の作品タイトル)とよく言われていましたけれどまさにそれですね。あと、みんな最近本を読まなくなってきていますよね。インターネットなどで便利になった一方、そういう自由な時間がない状況になっている。音楽活動をやっている人にとっても“音楽”というもののプライオリティが下がってきているのはわかっているのですが、好きでやっていることなのだからこそもう少しプライオリティを上げてもらえるといいな。これは趣味だからと言って下げてしまっていると思うんですよ」
――少し具体的な話をさせてください。例えば14歳でも何歳でもいいのですが音楽をやりたい人がGarageに出るためにはどうすればいいのでしょうか。音源を持ち込めばいいですか?
渡辺「音源は二の次でも構わないんですよ、とにかく来てくれれば。観に来て出たくなっちゃったということでも良いんです」
――うん、そうですね。それでは、ここからは渡辺さんご自身のお話をおうかがいします。14歳の頃には既に音楽をやりたいなと考えられていましたか?
渡辺「中学生のころは合唱部にいて、そこはNHK合唱コンクールで常に入選したり優勝していたりするような部だったんです。朝練、昼練、放課後、合宿がある本格的な部活ですね。僕はどうしても合唱をやりたかったというよりは、実はそこに好きな子がいたんです。もともと僕は剣道部にいて、部長までやっていて。でも昔は合唱なんて男がやるものではないという認識だったために男手が不足していて、熱心な勧誘を受けて入ることになったんです」
――そこではどんな曲を歌われていたのですか?
渡辺「中学生の分際で第九(ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番)とか……今でも原語詩を覚えています。周りにはその後に藝大に行って有名な作曲家になった人たちもいます。一応そういう環境にいたので合唱自体を好きになっていって、音楽の勉強もしたりしました」
――ちなみに、好きだった子とはどうなったのですか?お付き合いがあったり?
渡辺「中学生の分際でね(笑)」
――実ったんですね。いい話! ではクラシックから洋楽へといった流れだったのですね。
渡辺「いや、小学校高学年のあたりから洋楽は普通に耳にしていました。当時はCarpentersの譜面がフリガナ付きで『明星』の別冊に載っていたりして、友達のお姉さんに見せてもらったりしていました。“イエスタデイ・ワンス・モア”のギターコードを見たりね」
――その頃からギターは持っていたんですね。
渡辺「好きな彼女がギターを持っていて凄く上手だったんです。彼女は下宿屋の娘で、当時最先端をいっている大学生から色々な情報を得ていました」
――これまたいい話。Carpentersなど洋楽に触れつつ同時並行で合唱部でクラシックの知識も得ていたと。
渡辺「そうですね。あと、その頃一番好きだったのは、ラジオで聴いたThe Stylistics。当時はロックをやっている人と言えば不良でした。僕はまだ聴いている立場だったので不良という認識はされていませんでしたがね」
――合唱部の多忙な活動以外はどんなことをして過ごされていましたか?
渡辺「塾に行っていました」
――忙しい……自由時間はあまりなかった?
渡辺「自由が何かもよくわからなかったですしね。言ってしまえば、合唱部の練習だって自由と言えば自由ですよ。逆に言えば、まだ“子どもたち”という扱いを受けている以上は自由なんかないという捉え方もできます。変な話、エッチなことを考え始める年齢なのでエロ本探してきて、みたいなこともありますし、14歳の僕にとっては大人はうるさいことしか言わない人たちでしたねぇ(笑)」
――将来は何になりたかったんですか?
渡辺「そういう夢を持つことすらできない雰囲気の我が家でした。公務員の家でしたから、勉強して良い会社に入る以外の道はないぞと言われていましたからね。それが高校に入って、自分の中で弾けちゃった。良い会社に入る以外の道を選ぶこと、まして僕が音楽で食べていきたいと言っていることなんて、まるで幼稚園児が“サッカー選手になりたい!”と言うのと同レベルなほどに現実味なく捉えているんだ、大人って……と感じてしまって。家出しちゃって、芸能の付き人を始めたんです。近所に住んでいる人のツテを借りて。衣食住はひどかったし、そのタレントさんが休業するからと付き人仕事もなくなっちゃって、今度はバンドのローディーを始めました。“仕事がなくなっちゃったんですけれど”と言ったら紹介してもらえたんです。そこからエンジニアになって、今に至るというわけです」
――高校生の時点で保険をかけずに独立してしまうのは驚きました。
渡辺「当時の担任がその勢いの人だったんですよね(笑)。“お前、そういうのやりたいんだったら学校で勉強している暇じゃないだろ”と言うような、教師職も腰掛でやっている美術教師でしたから。今では法隆寺の壁画をやっちゃうような、人間国宝に手が届くくらいの大先生になられた。とにかく、その方が修行に出ろと言ってくれたんです」
――当時の渡辺さんにとってその方の存在はまさに、仮面ライダーにとってのバイク屋のおじさん、若者にとってのGarageのような立場を担っていたのですね。
渡辺「ええ、そうですね。今では大きく時代が変わってきているから大人の在り方も変わってきているのかもしれないけれど……。でもここに来ることで、バンド活動を通じて人間関係だとかの難しさもわかるとは思います。逆に社会人になってからここに来ても良いと思う。下手にゴルフを趣味としてやるよりも、よっぽど難しい趣味だから」
photography Mari Kinoshita
text&edit Ryoko Kuwahara
下北沢Garage
1994年よりスタートしたライヴハウス。PETROLZやBase Ball Bearを筆頭に、数々のミュージシャンがインディ時代を過ごし、メジャーになって後も足繁く通うサロンのような存在として知られる。
〒155-0031 東京都世田谷区北沢3-31-15 B1 LiveHouse/2F Office
Tel 03-5454-7277
Mail: info@garage.or.jp
http://www.garage.or.jp
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