私はどちらかといえば、リアリストの傾向があって、宗教やスピリチュアルな事柄に対しては、まずは一線を引いて様子をみるタイプだ。感覚と理屈を交えながら、腑に落ちるか冷静につとめ確認し、歩を小さく進める。少しでもおかしな匂いがしたらすっと離れることにためらわない。
龍に関しては、あのような姿をした動物がいるとは思っていない。あれは漢の時代に中国で創作されたもので、想像上の幻の動物であると自分は考えている。ただ龍が象徴するエネルギーである気脈の存在は信じている。なぜならそれは目に見えないが、はっきりと自分には感じられるものであり、経験を通して信じ得るものだ。ただ、見えない何かに接するきっかけのイメージとして龍の姿は意味がある。雲をはじめ自然物が偶然龍の形をとることもあるだろう。それを見た時には、遠くに思いを馳せて、目の前の現実を近視的に見続けることから自らを解き放つ契機としている。
現実の世界で、犬や猫などのペットがいるように、心の中で龍という動物と寄り添っているという感じが、私と龍との関係に近い。神様という漠然とした設定よりも、龍神さまとした方が、ビジュアル的にしっくりくるならそれでいいと思っている。その姿の向こうには気というエネルギーがあることは言うまでもない。
芦ノ湖の九頭竜神社のように、多くの人が集まっても乱れない気が噴出している強力な気穴ならば、そこに行けば、素晴らしい気浴体験ができ、停滞から脱し、気の巡りが良くなったおかげで、幸運を引き寄せたり、技が上達したりすることは十分あるだろう。きっと世界中にはそういう気穴がまだたくさんあるだろうし、気穴も閉じたり移動したりするだろうから、新たな気穴を自分で偶然発見するかもしれない。気の流れを龍とするならば、それこそ龍がその姿を伴って現れるかもしれない。想像が何らかの身体的な仕組みによって、幻視とも本物ともつかない視覚体験をもたらす可能性を私は否定できない。それがおこったら実に楽しいはずだ。人類はかつてみなその滾るエネルギーを見ることができたのかもしれない。世界中にある龍の伝説は、そのエネルギーを見ていた時代の記憶が生み出したとも考えられる。
さきほど息子を部活に送ったあとで、ドラゴンフルーツの花が美しく咲いているのを見かけた。思わず車を農道脇に止めて写真を撮った。こんなところにも龍がいるのだなと、深呼吸をひとつついた。
※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#58」は2018年9月10日(月)アップ予定。