だが、欲望の潮引きを迎えられる人は、結構立派な人で、大方はこじらしたまま晩年を迎えることになる。なので、せめて信仰心を膨らませて、落ち着きのある穏やかな日常を作る努力は無駄ではないと思う。自分を取り巻く様々な条件が複雑に絡み合った世界を、自分に合わせて作り変えるのは困難だが、自分自身を変化させて、取り巻く世界の解釈を変えて、幸福へと導くのは、それほど難しいとは思わない。というよりも、簡単だという前提を持つことから始めるのが大切だ。どんな事柄でも、できるイメージを持つことは成功の鍵である。
禅的な生活がもたらせてくれるものは、心の平安に尽きると思う。喜び舞い上がって幸福を叫びたくなるのではなく、穏やかに微笑んで安定していることを常態とするメソッドが禅的生活である。深刻に無について考えたり、一日中坐禅をするでもなく、ただ淡々と平穏な心で、一日を過ごすこと。ちょっと想像すると、それが結構難しいことに気づくだろう。
もう一度、私の生活の話に戻ると、日常のあらゆる場面で、自分が外泊中の僧侶だと仮定して過ごしてみると結構イメージが作りやすいかと思う。
姿勢、話し方、態度、物腰、使う言葉、眼差し、心の整い、など僧侶を演じるくらいの意識で始めると、楽しくもあると思う。変に物々しくする必要はない。小ざっぱりとした気持ちでやってみると、結構多くの変化がうまれる。衣服の選び方、着方、朝の慌ただしさの中でも、落ち着いて優雅な自然な所作ができる。相手の話も静かに思いやりながら聞けば、いつもと違う関係が生まれもする。無論、いきなり聖人になれるわけもなく、ただ一日の終わりに振り返りながら自分ができなかったことよりも、落ち着いて安定していられた時間や場面を味わうといい。その味わいがやがて少しずつ自分となっていくのだから。
ただ、心穏やかな優しい生活を望みすぎると、それが欲望となり、達せないストレスを生んでしまうので、ゴールは求めないほうがいい。ただ、僧侶のふりをして、淡々と過ごすことに徹すれば、知らずに穏やかな優しさが、あちらの方から近づいてくる。
坐禅や写経をやってみるのも、自分をその気にさせて楽しいだろう。禅寺の坐禅会に参加してみると、結構すっきりできるし、終わった後で、境内を散歩すると心が洗われる。また禅語に親しむのもいい。放下著(ほうげじゃく)という禅語は、先ほど記した内容をまさに指していて、手放すという意味。目標設定など手放してあるがままにいなさい、という教えだ。喫茶喫飯というのは、私が好きな禅語で、お茶を飲むときはただお茶を飲み、食べる時は食べるに徹するという意味で、その事と一体となるというふうに解釈している。
禅語は決して難しくなく、その本を開けば、必ず自分に合う言葉があるので、それを探すのも楽しいと思う。
禅的生活というと、なにやら形式ばったイメージがあるかもしれないが、要は僧侶ごっこをしつつ、禅の世界と遊びながら、自らを生きやすくすると捉えてもらえたら、嬉しい。お気に入りの禅語を和紙に墨で書いてみる日曜日なんて、結構いいと思う。
楽寂静(ぎょうじゃくじょう)
※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#56」は2018年7月13日(金)アップ予定。