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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#53 肩凝りについて

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おそらく、肩凝りを解消すべく何かしらの事はしていたはずだが、今となっては一切記憶に残っていない。なので、いつの間にか肩凝りが無くなっていたとしか言えないのだが、生活が一変するほどの変化が解消には必要だったのだろう。それは一つの症状に過ぎないのだが、葉山以前の仕事を含めた生活が、肩凝りに集約されていたのだとしたら、それを解消するには、元々の生活を変えるしかなかったとも言えるだろう。何かしらの対処的な手段で一時的に良化できたかもしれないが、根本的な治療には至らなかったと想像する。ある種の大きなリセットが私のケースでは必要だったと思う。
 思えば、私は幼少の頃より、学校の黒板や連絡帳や教師の口から、頑張ることを勧められ続けてきたようだ。それは大方の人がそうであるように。気を張って、継続することを求められ、常に結果を評価され、順位をつけられ、競争するのが当たり前の世界で生きてきた。それが必ずしも悪いことだとは思わないが、私がそうであったように、力を抜くこと、リラックスして楽しむこと、柔らかく周囲を眺めることが、置きざりにされ、それが不得意になってしまったようだ。
 葉山に暮らした後に、今は沖縄に暮らしているのだが、そこで習い始めた合気道の道場で、力まないようにと何度も指摘され、その度に自覚のなかったことに驚き、脱力して集中することの難しさを知るのだった。
 肩の力を抜く。力を入れるのではなく、ゼロでいることがどんなに難しいことか、これは経験してみる価値はあると思う。静かに気を充実させてただ在ることがどんなに難しく、そしてそれが出来た時の美しさは、他に比するものがないような安らぎを与えてくれる。ゼロと記せば、もともとの起点を想像するかもしれない。だが、ゼロは戻ろうとして帰し道をいくら辿っても到着できる場所ではなく、むしろ未来へと向かって経験を積みつつ脱力する術を得てようやく辿り着ける場所だと思う。ゼロは過去の誕生時のあるのではなく、未来に輝く場所としてある。
 力んで強張ると、そこでは気や体液や血液の流れが悪くなり、肩であれば肩凝りとして現れる。不必要に心身をアップダウンさせずに穏やかに微笑みながら寛容さを持って滞りなく暮らすこと。それを心がけながら今を満ち足りて生きること。気が充実しながらも脱力できている状態こそが常態となれたらと私は願っている。


 まずは、肩の凝らない日常を過ごす。一時的に凌ぐならマッサージなど外的刺激による方法も有効だが、根本的に離したいなら、自分をリニューアルする必要がある。生活のサイクル、食べ物、睡眠の質、人付き合い、仕事の仕方、などなど。思い当たるところからゆったりと離陸するのがいいだろう。そのような意識を経た上で、深呼吸と瞑想を実践できたら、肩凝りはいつの間にか消えているはずだ。そして、変わることを楽しんでほしい。自分自身を変えていくプロセスは、どんな小説や映画やその他の表現物でも成し得ないオリジナリティに富み、そしてリアルだ。変わることを放棄した時に、人としての凝りが始まる。顔や心の表情豊かな老人は常に内外の変化を楽しめている種類の人で、そういう凝らない人に私はなりたい。




※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#54」は2018年5月15日(火)アップ予定。
 

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