この原稿の冒頭で触れたある女優さんは、見透かされると言った。「見透かされる」、その言葉には、若干のネガティヴな感じがしないでもない。隠しておいた感情を見透かされた、というような、撮影者の不躾を感じる。不意を突かれれば、不快にもなるところを、癒しへと転化させるのは、交感が成立した時なのだろう。隠しておいた本当の私を見せることが出来た、そして理解してもらえた、という一瞬の実感が、撮影者と被写体を特別な関係へと導いているのに違いない。
この素晴らしいコミュニケーションを、真似ることは可能だと思う。
たとえ、二人の間にカメラがなくても、交わす視線を大切にすることで、撮影者と被写体との間に時に芽生える幸福な関係を発生させることは、可能だと思う。
相手をしっかりと見ること。まずは、そこから始まるのではないだろうか。そのしっかりの中に、相手への興味、理解したいという想いを込めれば、それは必ず伝わるし、そういう対象として見られていることに、相手も悪い気はしないと思う。もし、それが異性間であっても、性的な邪気がなければ大丈夫だ。異性として意識することはあっていい、ただ邪な感情はすぐにばれるので、そういう気がその時の自分にあると感じるならば、逆に視線の通路をオープンにせずに、取り敢えず視線が合っている程度にすべきだろう。
視線を大切にすること。そこから生まれる交感によって、双方が癒されるのは素晴らしいことだ。これは本来ごく普通のことなのだと思うが、オンオフを問わず、直に会わずとも文面だけのやり取りで済んでしまうことの多い昨今、視線の大切さが忘れられがちなので、今回は、あえて触れようとしてみた。
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