天野「中国に初めて行った時、ラムしゃぶ食べたんだけど、みんながピーナッツの皮をピュンピュン捨てる。で、4人くらいで食べるんだけど、直箸なんて関係ない。ガンガン取ってガンガン食って。さすがに僕でも最初は戸惑ったけど、『食欲ないの?』って訊かれて、『いいえ、そんなことないんだけど』って言うと『食えよ』って言われて、それから楽になりました(笑)」
平野「でも、そういう戸惑いとかって感情も大事というか、楽しいですよね。そういうものに触れると、『あ、食もわくわくするなぁ』とか『一筋縄ではいかないな』みたいな」
天野「一筋縄ではいかないですよ。美術はある意味で言うと、共通、共有出来るもんがあるんです」
平野「そうなんですか?」
天野「ポップアートでアンディ・ウォーホルって言うと、大抵世界中で通じるわけですよ。でも食べ物はそこでしか食べれない。だからとにかく色んなものが国とか地方に根幹を持ってるわけで、それは簡単に片付かないわっていう」
平野「それにその人が見る食べ物でしかないから、比べられないですしね。時代でも価値観って変わっていくし」
天野「言葉として変わって行く。でも変わらないものもある。例えば生ハムとか発酵したソーセージとか、個人的に作りたいんだけど失敗するんだよね。こんな日本みたいなところで作ろうとするのがそもそもアウトっていう。で、残念ながら韓国と日本は仲間外れなんだけど、中国からずっとイタリア越してドイツフランスまでは豚のサラミとか発酵させるような保存食があるんです。パスタも一緒だと思いますけど、色んなところに枝分かれしていくのはおもしろいなって。でも一方、大量生産で世界中どこでも行っても大抵同じものを食えるようになっちゃったんですよね」
ーでも最近のアートと食の関係も大量生産の時代とは変わってきてますよね。前回の音楽とアートの話でもそうでしたが、複製が出回りすぎててオリジナルのオーラに還るみたいな動きが、食をテーマにした表現の面でも起きている気がします。
天野「それはあるでしょうね」
ー体験型だったり、オリジナルに戻るのが表現として注目されている気がするし、単なるメタファーとしての大量生産とはまた一歩フェーズが変わって来ている。
天野「あの、アンディ・ウォーホルがやったようなキャンベルスープまんまとか、洗剤の箱をボコってそれをそのまま置いた、つまりアンディ・ウォーホルは何もしていないかもしれない。で、桑原さん(編集担当)が言った様なことになるかもしれないけど、どこに行っても同じ様なものしかないわけだけど、スペインのーー」
平野「エル・ブジ?」
天野「そう、エル・ブジ。あんな人みたいに1回っきり、同じものは2度とやりませんみたいな、オリジナリティみたいなものに対して世界中から彼が作ってるものを食べてみたいと思う動きがある。それは多分キリスト教徒にとって死ぬまでにバチカンやエルサレムの聖地に行ってみたいというのと、基本的には変わらないかなと思います。もうたくさん同じものを知ってるからいいですとなっても、世の中に1つしかない、そこでしか経験出来ないものを求めるというのは、なくなることはないんだろうと思いますよね」
平野「やっぱりそこにしかないアナログな体験って、食にしかない強みだなって思って。食べるってすごく実感がすごくある行為じゃないですか。アートを見ててもわからないというか、頭の中とアートは遠い気がするけど、食べると共有できたり、味として実感すると自分の中にしっかり入ったみたいな感じになるから、それが一緒になると強度が増すというのはありますよね。だからアートで食を有効に使うのはいいことなんじゃないかって」
天野「ヨーロッパの美術の一番の根幹は五感のアレゴリーと言って、食も入っている。で、その5つが絵の中に必ず入ってるんですよ」
平野「おもしろいですね」
天野「五感のアレゴリーが美術にあるというのは、実際に音が聞こえてくる様なものが出来ればそれは理想的に決まってるんです。だけどいくら絵を見てても音は聞こえて来ないわけです。それは想像してくださいと。だけど嗅覚、触覚、聴覚、知覚、味覚、それらがその絵から人間が十分に想像出来る作品が、非常に優れた作品だって言われてる。そういう意味でも両者は織り物みたいにして重なっているというのはありますね。直接的に食べ物を描いてどうですか、ということ以外にも」
平野「芸術的な皿だなということじゃなくて、効果として得られる体験とか感じる気持ちとかも入っているんですね」
天野「表現する人に織り込まれてるわけです。それが直接的でなくても、匂いや触覚などで出てくるんだろうと思うんです」
平野「確かに作用しないわけないですよね。毎日食べてるものがあって、創作活動みたいなことをしてれば」