天野「ねぇ。話は変わりますが、平野さんは子どもの頃から食事について書いてるんですか?」
平野「そうなんですよ、食日記を書き続けていて。私にとって食事の楽しみはすごく私的なものなので」
天野「僕は1人では酒は飲まない、つまんないから。ものすごく気の合うヤツとしかご飯も飲みにも行かない。ワーワー言うと楽しいし、喋ったことも酔っぱらってるからほとんど憶えてないんだけど、何を食べたか飲んだかよりも、何を喋ったっけなっていう方がいつも肝心になる。だからワインでも日本酒でもものすごく詳しく知ってるとか、そういう知識はどうでも良かったりします」
平野「じゃあ、わりとコミュニケーション主体の食事ですね。みんなと食べれば何でもおいしいタイプですか?」
天野「そう」
平野「私、それで完結させちゃうのは超もったいないんじゃないかと思ってるタイプなんですよ。食べ物を食べるって、ある意味自分の気持ちに触れるというか、食欲って自分の気持ちにすごく敏感に触れてくるものだったり、変わりやすいものだったり、情緒的なものだったりするから、今飲んでる麦茶と1人で休憩してる時の麦茶って味が違って、それだけでも楽しいし、そういう面白さが色々あると思うんです」
天野「僕の場合は、食べ物を介して美術や色んな話をしますね。海外のアーティストとも食べ物の話になると、俄然話が盛り上がってくる」
平野「なんでですか?」
天野「塩と唐辛子を集めたことがあるんだけど、どこかの国に行って『おいしい塩はないか』って言うと、僕の経験からすると10人中8人は燃える。アジアとか南米、アフリカ、韓国、中国とかに行った時に、『ものっすごく辛い唐辛子を探して』って言うとやっぱり盛り上がる。で、僕はそれを生で買って来て、自分で干してラー油作ったりするんですけど、最近は台北のアーティストの所行くと、必ずお母さんが1キロの唐辛子を持って待ってる(笑)」
平野「ははははは」
天野「そういう風に塩とか唐辛子とか、なんでもいいんですよ。違う国のヤツがいると、もっと盛り上がる」
平野「きっとみんなプライドがありますよね」
天野「ある種のナショナリズムというかね」
平野「『うちの国の米が旨い』とかって」
天野「そうそう、イタリアと中国が一番ヒドいねんけど。どっちも『全部うちや!』って言うの」
平野「そうなんですね(笑)」
天野「麺もプロシュートも『悪いけどうちが先や』って双方が言う。で、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』の背景に描かれてる風景についてもそう。14、5世紀、ルネサンスのイタリアでの背景の描き方っていうのは、実は墨絵、北宋とか南宋の影響を受けてるっていう説があるんです。もちろんこれもお互い認め合わない(笑)」
平野「(笑)」
天野「だけど影響されること自体は、当然あり得るわけです。シルクロードとかあったし、14、5世紀の交流が僕らが考えている以上に密にあったのね。というように、食べ物の話から美術の話になるんだよなぁ。おもしろいよね」
平野「食の話題は親密になりますよね。食べないで生きてる人はいないから。初対面の人って大体『どこ住んでるの?』って言うじゃないですか。で、例えば三鷹って言ったら『三鷹にすごくおいしいシュークリーム屋さんあるよね』って言ったりして、それですぐ仲良くなれるんですよね。そういえば、リクリット・ティラバーニャ(タイのアーティスト)というカレーを振る舞うアーティストがいましたよね? 例えばMoMAとかでカレーを振る舞うパフォーマンスだけでインスタレーションとして成立させちゃうような(正式にはタイ料理全般)」
天野「あれは一種のリレーションアートですよね、関係を作っていくという。食べ物を介した時にーー例えば日本のカレーっていうのはほとんどイギリス人が作ったもんでね。本来はcurryっていうのは野菜、肉、食事、おかずなどを意味する言葉なのでそんな食べ物はないんですよ。そういう意味で言うと、日本のカレーというのは、それを語ることでメタファーとしてイギリスの覇権主義とか植民地主義とか、ある種のインペリアリズムを語れるかもしれないっていう」
平野「そういう意味もあるんですね」
天野「そう、リクリットはそういうことも込めてやってるわけですよ。例えば韓国に行くと何でも唐辛子が入ってるでしょ? ところが、高麗の王朝料理を食べさせるような所に行くと、真っ赤なものが1つも入ってない。あれも豊臣秀吉の時代に日本から入ったものから、韓国人は唐辛子を日本人が攻めた象徴だってずっと忌み嫌っていたんです」
平野「ふーん」
天野「今はもちろんそんなことないですよ。唐辛子もそうだしトマトもそうだけど、大体原産地は南アメリカなんですよね。じゃがいももそうだったし」
平野「そうですよね、トマトもイタリアに来た時は『悪魔の実だ』って」
天野「そうでしょ? なんであれが広まったかって言ったら、ポルトガルがインカを征服して持って帰ったっていうのがある。食べ物の話はそこまで行くのでおもしろいですよね」
平野「食べ物って、そういう残虐な部分や腐敗、排泄とか、汚い部分ももちろん含まれてますよね」
天野「だから合わせ技でやるんですよ」
平野「それを下品だと言うのはちょっと違うような気がしていて。食について語る時って、そういう汚い部分は見ないでキレイでおいしい皿だけドン!みたいな、そういう見せ方をすることって多いんですけど」
天野「それはつまんないですよね」
平野「ですよね」
天野「ある種循環してるわけで。食べてる姿ってすごくプライベートなことだし、実は非常にエロいんですわ」
平野「って言いますよね。エロいですか?」
天野「だって内蔵の一部を露にしてるでしょ」
平野「確かにそうですね。そういう食べ物にまつわるダークサイドみたいな部分をアートでは積極的に扱ってる気がします。最近フードアートなんて言葉もありますが、食とアートの関係は根深くあるものですか?」
天野「ありますよ。例えば(フランドルの画家)ブリューゲルの絵の中には食べ物が度々出てくる」
平野「(画集を見ながら)すごい。あ、ブリューゲル展ってBunkamuraでやってましたよね? 私、これ見ました」
天野「ヨーロッパや……キリスト教でもそうですけど、食べることはもちろん大事なんだけど、贅沢なものを食べるとか大食いをするとかっていうのは罪なんだよね」
平野「うん、七つの大罪」
天野「ある種の宗教的倫理観みたいなものも含めて、っていうのもある。あと逆にプロテスタントというのは偶像を持たないんですよね。それで静物画などを描いたんです。お花とか、食べ物。牡蠣とか、色々食べ物を出してくるわけ。キリストとかマリア像っていうのは(絵に)出てこないんですけど、寓意、一種のアレゴリーとしてね」
平野「アレゴリー?」