天野「アレゴリーっていうのは寓意なんですけど、象徴よりもう少しストーリー性がある話のことです。例えば静物画の花は、『どうですか、キレイな花でしょ?』と言ってるんじゃなくて、こんなに花咲いてるけども、生きてるものの最盛の時代はすごく短くて、いつか枯れてなくなってしまうという、一種の人生訓みたいなものとして描かれている。一方で牡蠣なんかは女性とか女性器を象徴している。それも一種のアレゴリーです。そういう意味では、日常の中にある食べ物を文化的というか宗教的な文脈で入れていくというのは、美術の中で昔からあったことですね」
平野「ウォーホルとか、アメリカン・ポップアートにもたくさん食が出てくるじゃないですか。オルデンバーグ(クレス・オルデンバーグ。スウェーデン生まれ、アメリカの彫刻家)やリヒキンシュタイン(ロイ・リヒキンシュタイン。アメリカの画家)とか。食のモチーフを扱ってることがすごく多いなって思って」
天野「うん」
平野「なぜにここまで食を扱うんだろうと思ってたんです。(雑誌を見せながら)これはNYの若い女子が作ってるアート雑誌なんですけど、食の作品ばかりなんです。最近そうやってフードとアートを結びつける流れがあって。フードとアートと言っても色々で、例えば食のモチーフを入れたアーティストの作品ももちろうそうでしょうし、レストランの料理がアート的な雰囲気というか芸術的だねっていうようなものもアートだと思うんですけど、あとはアート体験をしてる時の気持ちと同じ様な気持ちになれる料理があるなって思ってて」
天野「うん。崇高な美術の世界からするとキッチュで俗っぽくて嘘臭くてっていうのを、ウォーホルはわざと出したわけでしょう? ウォーホルが活躍する1950、60年くらいというのは、同じ大量生産でも世の中のインフラを作るための産業革命が起きた工業社会。そこから脱工業社会になって、そうすると人間は、洗濯機やテレビなどと同時に食べ物を大量生産し出した。自分の生活を支えるようなものを大量生産してた時代から、じわじわと自分たちの身近なものも大量生産されていくわけです。今はそれがもう極まってる。例えば服だと、ブランドは違うかもしれないけど、ほとんどがメイド・イン・ベトナムとかミャンマーとかチャイナを着てる。ウォーホルの時代はそこまで行ってなかったけど、僕らの時代はそこまで行っちゃった。で、いくら美術が崇高ですって言うても、自分たちの身の回りにキッチュでニセモンくさい大量生産されたものがあって、それを表現する側が無視するわけないし、やっぱり取り込んでいくものです。『だって、それが現実だもん』って」
平野「それをやるのがアートの役目だったりするんですか?」
天野「明らかに人間に影響を受けてるわけですからね。時々見る美術がその人に決定的に与える(影響)よりも、毎日の生活で大量に生産されている様な食べ物とかものとかの方が絶対的に影響が大きいですから」
平野「なるほど、そういうことか。美術から見るとおもしろいですね。私はどちらかというと、食があまりに日常にありすぎて見過ごされちゃうことがあるからこそ、アーティストが扱ったりして『そういう見方があったんだね!』みたいな、非日常的な所から食を捉え直すのが面白いなって思ってたんです」
天野「ああ。まあ僕が言った様なことをみんなが考えながら毎日飯を食ってるわけじゃないので。でもキャンベルスープとか、繰り返される様なものを視覚的にポーンと出されると、『え、なんだろ?』って思う」
平野「うんうん、それでいつもと違うスイッチが入るみたいな感じがいいんですよね」
(後編に続く)