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天野太郎(横浜美術館 主席学芸員)「美術は近くにありて思ふもの」Vol.2 美術と食 ゲスト:平野紗季子(前編)

天野「感心するしないじゃなくて、もうこの機会を逃したら見れない、という感覚なんだろうね。それはご開帳と一緒で。世代によっても捉え方が違うと思いますけど」

平野「じゃあ情報として『それを見た!』ということが大事なんですか?」

天野「19世紀の末から20世紀の初頭くらいにフランスの(作家、詩人の)ポール・ヴァレリーがルーブル美術館に行ったんですよ。葉巻をくわえて入って行って、葉巻を捨ててくれって言われて激怒するわけ。ヴァレリーは良家の出で、絵なんていうものは葉巻でも燻らせながら応接間でゆっくり見るのがいいのであって、色々文句を言われて不愉快にさせるような見方なんてもってのほかだと怒り心頭で。更に、そもそもルーブルにあるものは元々あった場所からひっぺ返されて来てるからもう生きてないじゃないかと怒ったわけだけど、それから百年くらい経った今はまるで美術館に元々あったかのようにしてる。それをありがたいと拝むという」

平野「なるほど、歴史が塗り替えられている感じですね」

天野「100年経ってそういう風にシフトして来て、ヴァレリーみたいなことを言う人がいなくなっちゃった」

平野「ふーん。『日本上陸パンケーキ!』とかすごく多いけど、私はがっかりするんです。すごく好きだったNYのレストランが東京にやって来ても、そこにしかない空気は絶対に輸入できないし、因果がないじゃないですか。東京にある理由がない。だからちょっと共感しました(笑)」

天野「ああ、なるほどね。でも一方で美術館って、どこ行っても同じ温度や湿度に保たれてるし、匂いも排除するんですよ。だからそういう意味では、ここがMoMAだろうが横浜美術館だろうが、ある意味関係ないんです」

平野「土着性がないってことですか」

天野「そういうものを一切合切切っちゃって、ホワイトキューブでニュートラルにしてる」

平野「なんだかそれってすごく怖いですね! 都合がいいというか。何でも出すカフェのその裏にあるお皿やフライパンとかと、50年間ずっと酢豚を炒めてる鍋とは全然違いますよね」

天野「それを漂白しちゃってるんだよね」

平野「それはちょっと寂しさもありますけど、仕方がないんですか?」

天野「純粋に見る環境を作るっていうことがそもそもの美術館の考え方だから、匂いも含めて気配をとにかく取るんです。完全に集中出来るように一切音もなくして、五感を研ぎ澄まして、さあどうぞっていうね。でも本来、(アートは)遠くの方にあってよく見えない、だけど何かその場所が荘厳な感じで暗くて冷たいという合わせ技で崇めて見るっていうのがあったわけですよ。宗教的な対象でしかなかったわけです。それがいつの間にかそういう環境からボコッと取って、『さあ、この方が見やすいでしょ』って鑑賞する対象にしちゃったんですよ、人類が。2000何年の歴史が美術にあるとすると、たかだか150年ちょっとの最後の方でそんなことをやっちゃった」

平野「しかも入場料分で何か持って帰らなきゃって躍起になる(笑)」

artis_hirano

 

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