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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#42 和の所作

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 私がやっかいな肩こりだなと感じたある人は、表面的には礼儀正しく、しっかりとした言葉遣いややり取りもできるのだが、常に自分が優位な状態でいようとする極度の負けず嫌いで、対話による判断はせずに、自己完結的に決断する人だった。
 肩こりの相談をされるたびに、心の改善を切り出そうかと何度も思ったが、まだその人にはその準備ができていないだろうと、結局言わずにおいた。心の改善などは、本人の気づきがないと、スタートさえできない。その人の成長と共に、痛みという偏りも消えていく。
 若い時ならば、風船のようにただ表面を張って生きていれば、見栄えもつく。だが中身は空気しかない。空気を送り、張り続けられる時期が過ぎてしまえば、ただ萎み、シワが増えて、やがて小さくなってしまう。
 やはり心身に芯が欲しい。外ばかり張り続けるのではなく、芯があることから来る気持ちの張りが身体の張りを生む。


 前置きがとても長くなってしまったが、能で言われた、背筋を伸ばして脱力というのは、とても難しいものだ。逆に言えば、それができるようになれば、おのずから心身の調和がとれ、偏りもなく、全てが順調に流れ、病気が取り付く場所がない。
 私たちは、頑張って緊張をして何かをすることばかりで、脱力することが不得手である。だからこそ、学ばなくてはいけない。自分自身と調和をとり、心身共に病気にならずに、幸せな満たされた日々を送るために。
 能というのは、その学び場となると思う。そこにある和の所作の源泉を習うことで、崩れがちな心身のバランスを調整する一助になると私は直感している。
 和の所作とは、その静謐な動作と優雅さと知性のことだが、突き詰めると、すり足になると思う。
 何度かの稽古をしただけでも、すり足の難しさと大切さは身にしみる。理由を簡単に言うなら、私たちはあまりにも洋服を着慣れてしまったからである。着物姿では、すり足が最も無理なく歩ける。つまり骨盤に帯を巻き、腹を据え、下半身を安定させて、すり足ですすっと進むのが着物の歩き方である。すり足ができない着物姿の人は、歩く以前の立ち姿もどことなく妙できまらない。普通の洋服姿だと、乱れた姿勢でもなんとなくそれも良かったりすることもあるが、着物姿で乱れてしまうと、目を背けたくなる。それはその人の内面まで疑われてしまうような結果にすらなる。


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