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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#42 和の所作

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 能に興味を持つことになろうとは。


 否定的な思いこそなかったが、能は、銀座のクラブと同じくらいに遠い存在だった。それがひょいとしたきっかけで齧り始めることになった。友人がとても楽しげに能習いの楽しさを語る横で、やってみたいと手を挙げてしまったのだから、我が好奇心の見境の無さには改めて驚く。
 初回は神楽坂の裏手にある場所での稽古だった。駅を降りて、赤城神社の脇をさらに下った先にあった。やや緊張した面持ちで入っていくと、気さくな人々ばかりで安堵した。重要無形文化財である先生も同じく気さくで、初めから楽しい学びとなったのも幸運だった。
 稽古は、謡と舞に分かれていて、まずは謡である。板の間での正座は堪えたが、腹の底から声を出すことの気持ちよさが素晴らしく、舞では能と言えばの「すり足」が難しくも、背筋を伸ばして脱力せよという先生の指示に、合気道や瞑想との共通点を見て、心が前のめりになった。
 稽古は夜だったが、その昼間に大阪から新幹線で東京へと着き、重いスーツケースを引きながら、その足で新富町の足袋屋で、お能用を求むと言った時に差し出されたものを買い、日本橋の宿に荷物を預け、打ち合わせに間に合わせ、食事を簡単に済ませてから、向かった神楽坂であった。
 要は、そんなに忙しない思いをしてまで、その時はすでに、お能に入り込んでいたのだ。とは言っても、実際に稽古を体験するまでは、いつもの好奇心のなすがままの一行動に過ぎなかったのだが、稽古を終えた途端に、これは学ばなくてはいけない、と気持ちを固めた。
 何がそうさせたのか。
 まずは、素敵だったから。とてもとても日本的で、そういうものを知らずに、もしくは避けるように成長し、生きてきた者にとっては、ミャンマー奥地に伝わる秘術よりも、未知で新鮮なのだった。もちろんこれは例えであるが、単純に歳を取って安易に回帰的なっているだけかもしれない。若い自分だったら、歳取って能にいくなんて、と軽蔑さえしていたかもしれない。だが、そんなことはどうでもいいのだ。開き直るというよりも、自分の声だけに従う素直さを得たような気がする。その声が、能だろ?と言っているのだから、よかろう。


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