歩くという単純な動作の繰り返しは、自身を瞑想状態へと誘導しやすい。座っての瞑想は、動かないので代謝が落ちる。代謝を上げて全体のバランスを取るためには、運動も必要となる。ヨガやジョギングなどを瞑想と併用するのには、こうした理由がある。仙人は霞を食べて生きると伝えられているが、実際ヒマラヤのある修行僧は日に数粒の木の実だけで生きていると聞く。座っていることの多い瞑想三昧の生活では消費熱量も少ないので、あり得る話である。いつか木の実数粒の生活をしてみたいものだ。だが、僕は都市生活者である。そして写真家という肉体労働者でもある。あちらこちらとうろつき回り、人や出来事と向かい合い、異なる環境に日々晒される身である。木の実数粒では、熱量の帳尻がどうしても合わないのだが。一時は、「少食」から「不食」への移行も夢見たものだが、自分の心身の多動性とはどうも反りが合わないことに気づいて諦めた。「不食」というのは、字の如く食べないことだ。真偽のほどはこの目で確かめていないのだが、どうやらそういう人がいるらしいのだ。ただ存在して、日光さえあれば、水も食物も要らないという人が。まあ、これはさておき、運動や脳の活動によって消費される熱量分は外から摂取するという足し引きは、この先もずっと付きまとうことになる。回りくどくなったが、代謝が低くなったら高めてバランスを取ることは、割と単純な理屈なのだ。
ということで、瞑想をするならば運動もしなくては、という話に戻るのだが、「散歩」というのは、実に瞑想と運動を両立できる完璧なセルフヒーリングメソッドでもある。気をつけて歩いてみると分かるのだが、歩くというのは、下半身のみの運動ではない。歩行と連動する手の振り、バランスを取ろうとする腹筋、背筋、脊柱。その他の各部も何かしら作動していて、休んでいない。歩行というのは、各機能を正常に保つための基本姿勢による運動だと察する。生態学については明るくないので、このくらいの推察までにとどめるが、人類は二足歩行へとその進化を遂げたゆえに、各部各機能が、それに最適化されている。なので、正しく歩くことは、正しい健康状態を連れてくると僕は信じている。
その素晴らしき歩行と瞑想がくっついたら、心身ともに素晴らしく調整されるのではないだろうか。散歩の時に良いアイデアがわいたり、思いもよらない深い洞察に至ったり、怒っていたのが優しい気持ちへとスッキリしたりする経験を持っている人は多いと思う。だが、ただ、ただあくせく歩いているだけでは、そうはならない。ゆったりと背筋を伸ばし、胸を広げて心を開きながら歩くことが大切で、つまり瞑想をする時のメソッドを意識的にしろ、無意識的にしろ行った散歩中にそれは起こり易い。
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