NeoL

開く
text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#39 瞑想ワークショップ

IMG_5270


 つまりそれは、ある程度まで教える人から受ける知識や方向づけは必要だが、それ以降は自分で内へ内へと深まり降りていくことになる。内へ内へというのは、外に広がる宇宙のように無限な広がりを目指す。青空は宇宙の黒まで続く。自分の声は、喉から細胞の小ささ、儚い黒まで繋がっていく。ここから始まり遠くまで遠くまで。僕たちは誠実を尽くせば、いつもここから離れて遠くに手を伸ばし、果ての果ての自分を目指すのだ。
 瞑想というのは、本当の自分へと降りていくチケットのようなものだ。ワークショップはその旅の始発駅であり、空港である。そのチケットには当然行き先が記されているはずなのだが、魂の旅にはそれがない。ただチケットがあるだけで、誰もどこへ行くのか知らないでいる。僕は小さな力で彼らの旅の背中をそっと押す役なのだ。行き先は相変わらずないままだが、到着する場所こそが彼らの行き先なのであり、そこが必要とされるものだと思う。ただ、魂の旅には行ってはいけない先もある。そこへ向かうことを踏みとどまらせるのもきっと僕の役なのだ。
 とは言ってもそんなに大げさに考える必要は実際ない。姿勢を整え、呼吸を知り、心をコントロールする術を伝えたあとで、参加者たちは、それぞれのペースでそれぞれの瞑想を深めている。
 詰め込む学びとは違って、回数を追うごとに成果を並べることもせず、ただ毎回同じことを繰り返し、瞑想というものを身体に染み込ませていく。そういうことを大切にしている。学ぶことは、飛躍的な成果を競うことではない。少なくとも、そうでない学び方もあっていい。
 瞑想はゆっくりゆっくりと深めていくものだ。心身ともにゆっくり深めていくもので、急ぐ理由はない。効率を外して、むしろぐるりぐるりと同じ所を巡ることの多い時間でもある。最短距離で最短時間で、最遠地を目指す癖を外すことから始まるのが瞑想なのだ。
 その癖が強い人は、すぐに悟りなどの成果を持ち帰りたがるのだが、正直僕は瞑想に悟りを求めていない。神秘的な体験もだ。これは僕がよく参加者に語ることなのだが、このワークショップにおける瞑想では、日常生活のストレスなどから生じる心の痛みなどに対するセルフケアと位置付けている。


4ページ目につづく

1 2 3 4

RELATED

LATEST

Load more

TOPICS