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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#36 座禅

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 座禅というのは日本を訪れる欧米人にとって神秘的で魅力的なアクティヴィティだと思う。お金がかからずに、日本のエッセンスを体験できるとあって、座禅してみる?と誘って目を輝かせない欧米人は少ないだろう。
 50年代のビートジェネレーションのギンズバーグ、ケルアック、スナイダーらの著作物を通して、いわば逆輸入の形をとって、ZENに興味を持った私だが、感覚的に、禅をZENとして捉えている世代も日本人には多いと思う。文化的にお洒落なものとして。
 もちろん、仏教文化や歴史という真っ当な入り口から禅を掘り下げている方々も多いだろう。逆輸入という外国からの影響世代を抜けて、日本の文化に直接出会い、未見の異文化として新鮮な驚きと共に捉えている世代こそが今の世代かもしれない。


 そんな禅のイメージといえば、創始者のダルマの姿、そしてやはり座禅がまず思い浮かぶ。禅問答などもあるが、視覚的にはこれしかないだろう。堂内に静々と座した者たちが、警策という板で肩をぴしゃりと打たれるイメージこそが禅といっても過言ではないほどに。


 では、座禅とはいったいどういうものか。
曹洞宗の開祖・道元禅師は座禅を「ただ座ること」とした。これは只管打坐(しかんたざ)という教えで、ある意味座禅の目指す境地とも言える。どういうことかといえば、悟りなどを意識もせず、目指しもせず、ただ座ってさえいれば良い、という教えで、これこそが禅問答のようでもあるが、要は悟りなどを意識しているうちはまだまだで、そんなことすらも忘れて、ただ座り、リラックスして心穏やかに過ごすことこそ尊いとする境地だ。
 そんなことなら簡単だと思うかもしれない。暖かい日差しを浴びながら公園のベンチでのんびり座っていれば、只管打坐ではないかと。
 だが、これはただ緩むことでしかなく、うたた寝である。その最中にのみ心地よいだけのものは、目覚めてしまえば消えてしまう。
 座禅というのは、悩みやストレスの多い日々を送ってしまう自我を、別のステージへと上げる、人生をより良く過ごすための訓練なので、眠りとは全く違うのだ。
 実際座禅を試みてみると分かるが、心穏やかに座っていることが、いかに難しいことか分かる。日頃の悩みの種や、仕事や家庭のこと、食べ物、恋人、経済、あらゆることが次から次へと出没し、こんなにも自分は不安定なものだったかと愕然とするかもしれない。
 只管打坐。まさに安安とただ座れることの尊さが実感できるというものだ。


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