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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#34 短歌

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「遠くの恋しい人を想う時、人は言葉少なになる。」なんとなく、この言葉がぽっと心の内に出てきたので少し考えた。

言葉が少なくなる時、というのは確かに日常でも経験がある。そういう時は、心が言葉より先に動いている時で、恋もそうだし、悲しみ、喜び、怒り、絶望、つまり心乱れた時、人はまず言葉を失うのだと思う。
逆に、心乱れるような時に、自分の心情をつらつらと饒舌に語れる人を前にすると、本当は心が動いていないのだろう、もしくは動いた心を説明するのがよほど巧みなのだろう、と思う。いずれにしても、ちょっと白けた気分にさせられて、その場から退却したくなる。
言葉が少なくなる時は、焦って多くの言葉を導入するのでなく、少ないままに表せたら、よく伝わるのではないか。そんな単純があるのではないかと思う。
言葉が少ない表現として、俳句や短歌、詩などが思い浮かぶ。
実は、最近趣味として、ツイッターでほぼ毎日歌を上げている。五七五七七のリズムに、スマホで撮った写真を添えて。
きっかけは、俵万智さんの著作「あれから」を偶然手に取り、その中の一つに惹かれたからだ。


旅人の目のあるうちに見ておかん朝ごと変わる海の青あお


万智さんが仙台から移住した石垣島で詠んだ歌で、ちょうど自分が出版したばかりの沖縄写真集「あおあお」との符合を勝手に感じ、さらに同著者の「あなたと読む恋の歌百首」を読み進めた後で、にわかに短歌好きとなり、自作へと向いたのだった。
私のは、文語と口語がごっちゃになり、その使い方もかなり怪しいのだが、難しそうな作法を一切省みず、ただ日々の思いつき、感じた事を五七五七七に放り込んでいる。
これが楽しい。最初は指を折りながら、字数を気にしていたのだが、慣れてくるとリズムが自然に分かってくる。虚栄も野心も無くただパズルのように言葉をはめていく作業が、断捨離と通じることも発見した。言葉の断捨離である。
断捨離についてはこの連載でも以前触れたが、要するに無駄を省いて心身をすっきりさせることだ。和歌を作ることは、言葉の断捨離だなあと気づいたら、さらに作業が楽しくなった。


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