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藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#28 旅すること

 

最近気づいたことだが、私は人に会うと、よく「どこか行きましたか?」と質問していることが多い。知らずのうちに、移動すること、旅行、旅することを気にかけているようだ。

住み慣れた場所から、いったん離れて他所へ行くと、様々な楽しさを発見する。食べ物、風習、季節、風、言葉、色使い。それらの違いを肌で感じると、自分に心地よい揺さぶりが入る。自分の個性などという、ありもしない張りぼてをでっち上げてしまいがちな日常を離れると、そういう馬鹿げた人工物に揺さぶりが入り、割とあっけなくヒビが入ったりする。それは極上の経験ではないだろうか。

固定化、つまり滞ろうとする自分に亀裂を入れることは、とても創造的だし、知的なことだ。別に知的であることを上に見るつもりはないが、揺さぶりと楽しむという精神の位置は、肉体的というよりも知的という言葉が親しむ。

そういった心への影響により、滞りが抜けることも旅ならでは、と思う。その一方で、やたらと歩くことも体の中の様々を巡らせるという意味で、わかりやすく癒しへと繋がっていく。

つまり心身を手っ取り早く刷新しようと思うなら、旅に出るのがいい。彷徨い、失い、刻々と新品になっていくのだ。

そのためには、あまり下調べも越さないことだ。それらによって団子状に並んだ旅の目的とやらを、順番にこなしていくことは、団子という過去の自分の典型をナゾルだけであり、ちっとも自由ではない。壁に貼られたノルマ表にチェックを入れてからタイムカードを押すのと何ら変わりはない。決して綿密に企てられた旅の計画を全面的に否定はしないが、私たちの自由には、やはり空白が必要なのだ。

時には倒した棒が示す方向に、朝の一歩を踏み出す酔狂が欲しい

いや、酔う必要はないのだが、酔うにしても、自分を忘れること、忘我が楽しいのだから、遠い言い回しではない。

さておき、旅とは、ヒーリングである。

先日、京都に息子を連れて遊ぶ機会を得た。午後から書店への新刊を携えた挨拶めぐりという仕事があったので、午前中のわずかな時間を使って、ぶらりと歩くことになった。
ぶらり。この感じがきっと旅なんだろう。あくせく、と対語になるが、ぶらり、が大切だ


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