考えたときには、もう目の前にはない/2014~2015年/
——商業や目的のあるものから解き放たれてから。
石川「うん。多分そうだと思うんです。相手にされなくなって初めて面白いみたいなのってあるじゃないですか。そんなもんだと思うんですよね。目的がなくなって、本当の意味で、その人の中での目的が行われる」
天野「石川さんが本当に美術の本を読んでないで言ってるなら、天才かもしれない。美術史の本を読むとその通りのことが書いてある。美術の使命は長い間自然を再現させることだったけれど、写真の登場でそのミッションが終わってしまった。そこである意味、絵は自由になった。それまでは神話と宗教と歴史の3つを主題としていたのが、抽象画を描き始めた。人がわかろうがわかるまいが好きに描くんだと自由になったわけ。だけど自由になりすぎてわからなくなっちゃった。誰がみてもわかる絵があったのに、誰が見てもわからなくなって、1970〜80年くらいに一回行き詰って、次に物語を書き始めたの。物語といっても昔の歴史や神話ではなく、『君が昨日の晩見た夢じゃないの?』という内容のものを描き始める。勝手に見た夢だからみんなが共有できるわけじゃないけど、何人かは共有できて、その夢や気持ちがわかる。そういうことでずっと続いてきている。つまり何かを再現しなきゃいけないというのを解き放たれて以降、ずっと解き放たれたままなんですよ。絵を自由にさせたのは写真。その写真が最初に何を一生懸命やったかというと、画家が絵を描くように写真を撮ること。写真は自由なはずなのに、一挙に自分で世間を狭めた。でも写真はすごく気が付くのが早いので、これじゃあだめだと、絵とはさよならする。写真の最大の特徴は人が肉眼では見えないことを映し出してくれることに尽きる。それは、僕はやっぱり発見だと思う。写真を見ると、ザッとしか見てなかったものにこんなものもあるんだと見る方が発見する。それで今に至る」
石川「みんな何かの方法で自分と言えるものを残すことがしたい。人は一番何が作りたいかというと、子どもだと思うんです。表現って全てそこだと僕は思っていて。空間や時間、全部を超えることができるのは子どもだと思うんですよね。それを何かに置き換えたときに、表現、美術になるんだと思うんです」
天野「面白いね、それ」
石川「男が社会やものを作ることの先に立ってきたのは、子どもに対するリアリティが薄いからだと思ってるんです。女性は自分の中から出てくるから、それ以上の必要性がない。男は自分の子供だと言われてもやっぱり心のどこかに『本当か?』ということがある。そこが一番モノや社会を作るときに強い動機になっている気がして……」
天野「それはフィクションだよなあ」
石川「うん、そこが一番強い。それが例えば、クローンが作れるという可能性が出てきた時に、男性性や女性性というのが平たくなってどんどんどこまでも自由になる、もう何もわからない状態になるということが言えると思ったり。それが今の、タルボットの子どもがえりじゃないけど、そういう状況に置き換えられるし、どこに視点や重点を置くかということにもなるけど。誰もが物を作れて誰もが子ども産めるとなった時に、どういうものが出てくるのか。どういうことが重視され、求められるか。そう考えたときに、僕は子どもを作りたい思ったし、これしかないんじゃないかと思いました」
天野「すごい、それはロジックとしては成立してるよね。しかも正しい。生物学的に言うと基本的に性別は雌なんです。環境が悪くなるとカエルは一斉に雌に変わって、環境が良くなると雄を作るというように。でも私ら人間だけが人工的に頑張るわけよ。できんのやったら何とかして作るか、と。やれ美術だ表現だというのはおまけで、それも全部男があかんからできる。それこそ太宰治もそうなんやけど、やっぱり無理と知って死ぬ男もいる。それが僕ら男のリアリティを形成しているのは間違いない。だって実際に子供を産んでみないとわからない。ある日突然出てくる自分の子どもに、一億分の一の心の中どっかで『ほんまか?』って気持ちがある」
石川「実際にその統計をとった学者がいて(笑)。嘘か本当かもわからないけど、その生物学的なところに自分の中でのリアリティが描ける瞬間があるんですよ。それだけは本当に正直な気持ちで。無意識的に女がコントロールできる範囲と男がコントロールできる範囲も幅が違いすぎる」
天野「まあ、無力ではあるわね」
石川「女がやっぱりコントロールしているとなれば、じゃあちょっと絵でも描こうかって気にもなりますよね(笑)。僕は単純にそこかなという気もしているんです」
考えたときには、もう目の前にはない/2014~2015年/