顔写真を撮ってもらう時、ある頃からもう少し右を向くようにとカメラマンから指示されることが常になった。自分では正面をちゃんと向いているつもりなのに、どうやらそうではないらしい。
自分が撮影者となって被写体と向き合う時には、人の身体というのは多少の差はあれど、歪んでいるのが当たり前だと実感する。心臓が左にあることからしても、左右非対称な身体が歪んでいるのは当然で、歪んでいないことを正常とするのは、そもそも幻想だ。
では、人はどうしてさらに歪んでいくのだろうという問いが自然に出てくる。小さな歪みで収まっていれば良いのだが、現実はそうでもない。しゃんとした姿勢の老人も中にはいるが、老いると人は歪むのが当たり前のように思われているし、実際そういう人が多い。筋力が衰えれば、様々な保持力が失われるのだから、仕方がないとしても、しゃんとした老人と腰の曲がった老人との差は、その人生においてどこに違いがあったのだろう。
老いの歪みについては一旦置いておくとして、若い人でさえ歪んでいる人が多くなって見えるのは、気のせいだろうか。後ろから見ると老人と同じような姿勢で歩いている人を街でよく目にする。東京の大きな交差点で、様々な世代の人が、それぞれに歪んだ姿勢で歩いている姿を一目する時などは、世界が変わるというのは、全ての人の姿勢を整えることなのではないだろうか、と思いついたりする。
多くの人々が、しゃんとした姿勢で歩き、座り、生活できたら、ちょっと大げさな話になるが、良い波動が波及して世界がもっと平和になるような気がする。
とはいえ、私には歪みそのものが決して悪いことばかりだとは思えない。何にしても必要から生まれると思うからだ。
いうまでもなく、人はそれぞれに異なる環境、食事、教育、で育ち、それらが何かしらの原因の一つとなって、それぞれの歪みをもたらしている。
心地よさを追求するという生命の原則を考えれば、局面的には歪んだ方が生きやすいから、歪んでいるのだとも言える。現状で最もバランスの取れた楽な状態を、歪むことで、ひとまず作っているのだ。