——そして田中さんも、FPMとしての登場当時、pizzicato five周辺でのお仕事などを通して、渋谷系として捉えられる場合も多かったと思いますが。
田中「京都の出なんでちょっと外れてるかなと思いつつ、東京に出てきてからは渋谷を住所にしてるし、まあまあ渋谷区に納税もしてるので、渋谷系でもいいのかな、と(笑)。ま、それは冗談にしても、特に海外では渋谷系と括られていましたね。僕はFPMでのデビュー前は京都で活動してたんですけど、その際に小西康陽さんテイ・トウワさんと出会って、その流れで海外のアーティストにも僕の事を紹介して頂いて、海外からも声をかけてもらったり。そうやって90年代から海外にキャッチ・アップされて、DJで呼ばれたり、日本でのディールも決まってないのに、僕のレコードを海外レーベルがリリースしてくれたり。97年のデビュー作『The Fantastic Plastic Machine』は、ベルリンとロンドンとアムステルダムでレコーディングしてるんですよね」
リサ「本当に羨ましい!」
田中「時期も良かったんですよ。日本の音楽が海外で求められて、日本の音楽がクールなものとして需要される、夢のような時代があって。その中心に渋谷系があったんですよね。だから、渋谷系って言葉は未だに強いですよ。海外では」
——渋谷系はpizzicato five、ラヴ・タンバリンズ、フリッパーズ・ギターなどが代表とされますが、広義で言えば、スチャダラパーや電気Groove、暴力温泉芸者なども入ってくる。もっと超広義で言えば、バニラビーンズとも親交の深いロマンポルシェ。も超特殊な形ですが、渋谷系として捉えられる事もあったと、あくまで私見ですが記憶してます。それぐらい幅が広かったですね。
田中「90年代で言えば、メイン・ストリームは小室哲哉さんの全盛期で、毎週100万枚のヒット曲が生まれるような時代で。そういう音楽シーンの景況があったんで、そのカウンターにあるものだったり、サブカルチャー的な音楽、僕らみたいな重箱の隅みたいなアーティストでも、注目を集めたし、そこそこ売れたんですよ。しかも日本だけじゃなくて、海外のマニアックな人達にも届いて。渋谷系自体、サンプリング・カルチャーも大きく影響してて、映画音楽やボサノバ、ムード・ミュージック、ニュー・ウェーヴ、ネオアコって、いろんな音楽を雑多に取り込んだモノが多くて、オールミックス感があったんですよね。色んなジャンルの格好いいもの、オシャレなモノが纏まって、すごいパワーを放ってたと思います。それが、海外の人まで納得させるようなエネルギーがあったと思うし、それが10年以上経っても渋谷系が注目されて、また新しい世代にも波及してる理由なのかなって」
レナ「だから、早く再ブームが来て欲しい(笑)」
リサ「まだその波は来てないんです(笑)」
田中「90年代当時に、このルックスで渋谷系として活動してたら、人気爆発してたと思いますよ」
リサ「生まれた時代を間違えた~!(笑)」
レナ「解散商法なんてやってなかった(笑)」
——では、その解散商法について伺いましょう。バニビはニューシングル「女はそれを我慢しない / ビーニアス / lonesome X」、そして来年2月にリリース予定のアルバムの二枚で、出荷枚数が1万5千枚を超えないと解散という宣告をされましたね。
レナ「レーベルと言うよりは、うちの事務所が決めました。活動も9年目に入ったけど、鳴かず飛ばずだから、メジャーで再デビューするのを期に、『1万5千枚売れなかったら解散』という決断を突きつけられて」
リサ「『そろそろ婚期でしょ?』って」
田中「でも、色んなジャンルに熟女枠があるから、そこに需要があると思うんだけど(笑)」
リサ「まだそこまで行ってないですよ!(笑)」
レナ「バニラビーンズは年を重ねたほうが味が出るグループなんだなって、自分達でもようやく分かってきた時期で」
リサ「ライヴでも『長く続けて、結婚して子供が出来ても、託児所作ってライヴしよう』って話もしてて。でも、その直後にこの宣告をされて『え、私達のMC聞いてました!?』って」
レナ「だから正直、悔しいって気持ちでしたね」