今年の夏休みに訪れた奈良県の黒滝村のとあるヒノキ家具の直売所でのこと。店内に入るとヒノキの香りに包まれて、なんともいえない安らかな気分になった。家具は間に合っているし、旅の途中なのでまな板を買う気にもなれないな、と何かを買うことを諦めていると、一辺3センチ程のキューブが十数個で三百円だった。しばらくそれをしげしげと見たり嗅いだりしていると、店の主人が袋詰めしていないキューブを一つ差し出して嗅いでみるように勧めてくれた。それは節の部分で濃茶色をしていて嗅ぐと打つような強い香りがした。節には樹脂が白い部分よりも多いのだと知り、節の部分だけ欲しいと伝えると快く了承してくれた。節は人気がないのだと言う。
ヒノキのキューブを12個袋に入れてもらい、それをそのままレンタカーの適当な所に吊るすと、以後車内はずっと森の中になったのだった。
そういえば、白檀の一大産地であるインドでも路上で安く売られていた白檀の木片をいくつも買ったことがあった。鼻を近づけていくと、白檀独特の凜としたアジアの高貴な香しさがあった。インドでの旅では、安ホテルやゲストハウスの枕元にいつもそれを置いておき、就寝前に必ずゆったりと嗅ぐというのが習慣だった。嗅ぎながら目を閉じれば、外の喧騒と混沌と熱気はすうっと遠のき、透明な繭の中で揺られながら、穏やかに睡眠へと入っていけるのだった。
屋久島では、川が海へ注ぐあたりで、流木の木片拾いをした。私は拾い物をよくやる。単純に旅の記念にしようと思っていたのだが、手にしたいくつかの中に、明らかに他とは違う甘い香りを強く放つものがあった。居合わせた現地の人に尋ねると、樹齢千年を超えた屋久杉と呼ばれるものの欠片だと教えられた。かなりの年月を川に洗われたであろうその欠片は、輪郭が丸くなり、それでもなお強い香りを残しているのだった。
巨木の杉で有名な屋久島だが、本来、杉が成長するには適所ではなく、木片が示す年輪の幅の薄さは、一年であまり成長できないことを意味している。そういうじっくりと耐えるような成長が濃厚な樹脂成分と硬い木質を生むのだ。余談になるが、屋久島で拾った木片に仏像を彫ろうとしたことがある。病で倒れた旧友の快復を祈ってのことだった。だが、刃がなかなか入らないほど硬かった。その木片にはまだ命があって、刃を拒んでいるのかと思われるほどに。同い年の旧友はついに戻ることなく、逝ってしまったが、木片に刻まれようとした観音像の輪郭は、その屋久杉の命と友人の命を交差させ、生死のこちらとあちらの接点として時々私の手の中に収まって、甘く優雅に香る。生きること、そしてそれが終わること。それは共に甘く優雅であると教えているかのように。
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