──なるほど。とりわけインパクトの強かったコマって覚えてます?
入江「ええ。単行本1巻の終わりの方、日々沼たちが初めてバンドを組んで、高校の体育館でライブをする場面ですね。ページを開いた瞬間、誇張じゃなく爆音が鳴り響いた気がしました。ヘタクソなんだけど思いきりエモーショナルな演奏。音を使えないマンガで読者にそう感じさせるのは、本当に凄いことだと思います。なので今回、ただ単に原作のストーリーをなぞるんじゃなくて。むしろこのマンガから受け取った手触りみたいなものを、できるだけそのまま映画にしたいという気持ちがありました」
──たしかに映画版はプロットや細かい設定が原作とかなり違ってますよね。でも観終わった印象は不思議とマンガの読後感に近い。
入江「だとしたら嬉しいです。『日々ロック』って、お話そのものは意外とオーソドックスというか。王道の青春ものだったりするんですよ。それをただ映像化しても、当たり前のロック映画にしかならないので。脚本を作る際には、何が自分をそんなに強く揺さぶったのかということをすごく考えました。少なくとも、表面的なエピソードのカット&ペーストみたいな仕上がりだけは避けたいなと」
──具体的には何を意識しました?
入江「まず1つは、原作に出てくるエピソードや魅力的なサブキャラクターを思いきってカットし、物語の軸をあえて主人公の成長に絞り込むこと。通常、ロック映画というのは、バンドとしての紆余曲折だったりサクセスを描く場合が多いと思うんです。でも『日々ロック』の場合、日々沼という主人公がどう自分の歌と向き合っていくかという過程が重要で。最初はモテたいだけだった男の子がバンド仲間と出会い、宇田川咲というヒロインと出会い、自分自身を見つめ、苦しみながら歌を絞り出していく。ヘタクソなんだけど、それでも歌わずにはいられないっていう感じ……それこそ魂の叫びみたいなものが大事だと思ったので」
──計算とか合理主義じゃない、やむにやまれぬ衝動みたいなもの。
入江「うん。それって別にロックに限らず、映画でも小説でも同じだと思うんですよね。最初は人に褒められたいって気持ちから始まっていても、最終的には自分と向き合わないとまともな作品は創れない。僕自身もそうです。撮ってる最中はいつも無我夢中で。何年も経ってから『もしかしたらあの頃、自分は成長してたのかも…』と気付く。今回の映画ではその感覚を、ザ・ロックンロール・ブラザーズというバンドの音を通じてちゃんと出したかった。なので、2時間のあいだに何回ライブシーンを設け、そこで彼らが具体的にどう変わるのかということは、脚本の初期段階でかなり議論しました」
──何か参考にしたロック映画ってありました?
入江「うーん……日本のものではあまりなかったかなぁ。良くない事例として観返した作品はいくつかありましたけど(笑)。むしろ自分が行ったライブハウスの熱気とか、すごくよかったミュージシャンのパフォーマンスとか。そういう僕自身の記憶なり音楽体験に嘘をつかないというのが大きかったですね。あと、映画の質感という意味では60年〜70年代のアメリカン・ニュー・シネマ──それこそ『イージー・ライダー』のザラザラした感じ。無軌道で何でもありのカオス感みたいなものは、撮りながらイメージしてたかな」