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text by Daisuke Watanuki

私たちはもう黙らない。綿貫大介「ひとり街宣記」




今回の東京都知事選挙は、いつもと違っていた。無党派が多い東京で広がった「ひとり街宣」が、東京の景色を一変させたのだから。私もそれを実践し、渦中でムーブメントを全身で感じた一人でした。だからこれは、一人の市民のエゴドキュメントとして残しておきます。あらゆる抵抗において活用できる、「ひとり街宣記」として。


草の根の精神で、まっとうで愚直な応援がしたかった


度々の選挙の度に落胆していた。自分のタイムラインでの盛り上がりと、「世間」の結果が全然違うから。もちろんSNSは自分と似たような価値観の人ばかりをフォローしているんだから、それは当然のこと。ユーザーの好みを学習したアルゴリズムは、私がほしい情報ばかりを届けてくれる(「エコーチュンバー」と「フィルターバブル」ってやつね)。大多数のタイムラインはぜんぜん違う有り様で、結局、選挙の結果こそが「民意」とされる。わかってる。


ここ数年、やっと「選挙へ行こう!」というキャンペーンが出始めたように思う。キャンペーンとは?って感じだけど、それくらい選挙は有権者にとって関心事ではなくなっているんだろう。だから改めて「選挙へ行こう!」と伝えるのは大事。でも、SNSでの「#VOTE」だけではもう、どうしようもないところまで来ているなとも感じていた。


巨大な力を持ちすぎて人々の意思を無視する権力者の独裁政治を否定し、市民の権利を獲得していくことが民主主義で、だから選挙は民主主義の基本。そう思ってたけど、今の選挙は必ずしもそうじゃない。誠実さや真実ではなく、“勝てさえすればいい”というやり方がはびこっている。


裏金をばらまいて票集めをされたり、利権に絡み取られた選挙に、市民の意志が反映される余地なんてない。不正まがいの権力者のための選挙を、市民のためのものとして取り戻さなきゃ、民主主義の未来はないと(「国政を東京に持ち込むな」なんていう人もいたけど、現職は自公べったりで、やっていることは自民党の利権政治の東京版。すでに東京には国政が持ち込まれているんですよ)。


だから私は蓮舫さんを応援することにした。現職に対する対抗馬であり、あらゆる差別に対してNOを意思を示してくれていたから。弱者の視点と人権を大切にして、悪しき都政の転換をはかってもらう新しいリーダーがほしい! (当初は戦略的投票の考え方でありつつも)この人を本来の選挙システムに則って当選させたいと強く思った。


でもそのためには自分の「大切な一票」だけではどうにもならない。ちゃんと同じような無党派層に興味関心を持ってもらわなきゃいけない。でも、どうすれば? そこに答えをくれたのが2年前の杉並区長選で行われていた「ひとり街宣」だった。草の根民主主義の精神で、まっとうで愚直な形で応援したかった自分にとって、フィットするやり方だと感じていた。


一人でも路上に立って訴えることが、民主主義への道

思い立ったが吉日。コンビニへ行き、ネットプリントでプラカを印刷した。6月28日、まず初日はプラカをカバンにつけて移動することから始めた。これは全然平気。でも、ここから先の一歩にとても勇気がいることをそのときの私はまだ知らなかった。


翌日からは路上に立つことにした。場所は自分の住む世田谷で、人流を鑑みて下北沢を選んだ。いつも来ている馴染みの駅なのに、なんだかソワソワしてしまう。後ろめたいことなんて一切ないはずなのに、なんでだろう。とても怖くなった。別にどこで自分の主張を掲げたっていいはずなのに、緊張した。何度かウロウロし、水を飲み、10分くらい気持ちを整えた。よし、大丈夫。ついに両手にプラカを掲げ、駅前に立った。


すごく見られている気がする。気のせい? いや、見せているんだから見られてOKなんだった。これまでもデモ・スタンディングの機会にプラカは掲げていたから余裕だと思っていたけど、「世間」に向かって一人で立つ勇気をなめていた。


そもそも私がデモというアクションに最初に参加したのは安保法案の反対デモのときだった。危機感を持つ多くの人とともに「民主主義って何だ」「これだ!」のコールに酔いしれた。でも正直、今まで民主主義についてちゃんとは理解できていなかったんだと思う。だって今回、知らない大衆の面前で一人プラカを掲げ、声を出したときに初めて、民主主義に触れた実感があったから。


「民主主義の基本は一人でもマイクを持って街に立つこと」って宇都宮健児さんは言ってた。これ、政治家だけの話じゃなかったんだ。市民一人ひとりがやっていいんだ。一人で声をあげてもいいんだ。すべてがつながり、「私は今、民主主義を体得しているんだ」と初めて思えた。そっか、デモクラシーって、王様でも貴族でもない、街角を歩いているようなごく普通の人が力を持って世の中を動かしていることを指す言葉だったんだ。


最初はどこか不安げだったと思う。でも、数日やってみて、みるみる自信がついた。声色、表情、姿勢の変化だろうか、サムズアップサインをくれる人、応援してくれる人はもちろん、興味を持って声をかけてくれる人が増えたのでびっくりした。一方的な主張しかできていないと思っていたから、路上で知らない人と対話ができるというのは嬉しい収穫だった。





路上は価値観が違う人たちとフラットに話ができる場所

話しかけてくれる人のなかには、蓮舫さん支持者、まだ投票先を決めていない人はもちろん、他の候補者の支持者もいた。今回話せたのは石丸(伸二の方)さん、田母神さん、内海さん、安野さん支持の人。最初はヒリヒリするかなと思ったけど、対面だからか、ネットみたいな論破合戦みたいになることはなかった。相手を尊重し、相手の意見を聞くと、相手の内になる切実な思いも見えてくる。


「小池さんも蓮舫さんが嫌い」だと言う人には、その理由を聞いてみた。「それはなんでですか?」「女性だからですか?」「年齢ですか?」と因数分解してみると、嫌いの中に差別や偏見の意識が混じっていることがよくわかった。デマや陰謀論を信じ切っている人もいた。でも、「個人」としての話を聞くと、その陰謀論は、その人の自己閉塞感や苦しみに寄り添ってくるものだったんだろうなと感じたりした。否定するのは容易いけど、それでは対話にならない。なるべくお互いの合意点がどこにあるかを探るようにした。対話をすると自分も相手も少しずつ変わって、共通の平地が見えてくる。だいたい双方が納得できる「一番大切なこと」は、現職の、今の東京に対する不満だった(現職の支持者にはなぜか一度も会わなかったです)。なんだ、みんな同じ気持ちなんじゃん。


それに当たり前だけど話しかけてくれる人は、「誰かと話したい」と思っている人たちだった。でも、周りの人とは政治の話はできないと言っていた。誰を支持してるかはもちろん、政治の話は親しい人にこそなかなかできない。そういう話はタブーって、私たちはなぜか思わされてきたから。タブーにしといて都合がいいのは権力側だけなのに。世の中無関心な人だけじゃない、関心があっても誰にも共有できずに視野を広げる機会のない人も多いんだ。もっとライトに政治の話ができる「場」が路上にあったというのも発見だった。


私はまだ同じ価値観の人とは話す機会がそれなりにあるけど、違う主張をする人と直接話すことってめったになかったから、それができたことにも路上の可能性を感じた。しかもディベートではなく、ダイアローグができるなんて。だから路上ではなるべく話すようにした(ただ、これができたのは私がシス男性だったからでもある。女性の経験者の話を聞くと、年配の男性からマンスプレイニング的な態度を取られた、怖い思いをしたという意見もあった。それでも立った人たちは、そんな女性蔑視の社会への抵抗でもあったと思う。自分の特権性を意識しつつ、これからもそこに連帯したい)。


投開票日も夕方から20時まで「選挙へ行こう」の呼びかけプラカを持って下北沢に立った。計10日間。最後までやりきり、そのまま路上でTBSラジオの選挙特番を聴いた。結果は残念だったけど、これまでの選挙と違った満足感もあった。できることをやり、それゆえの実りも大きかったから。今回の知事選は、奇跡的な盛り上がりを見せたと思う。




「ひとり街宣」はDIY精神が生んだアナキズムと相互扶助の実践

ここからは、都知事選を終えての後日譚。選挙期間中もバッシングはすごかったけど、終わった後の敗者バッシングも相当だった。なかには「ひとり街宣」に対して、敗因の責任を押し付けようとする意見も。これはSEALDs叩きと重なっても見えた。


民主主義のために立ち上がった人たちをやっかみ、潰したいと思う人たちがどれがけ多いことか。「声をあげるならば、中傷されるのを覚悟しろ」とでも言いたげな口撃だけど、そんな不当な覚悟を迫られている現状はおかしい。


批判の声に隠されているのは「身分をわきまえて黙ってろ」という本音だと思う。でも本来、それに対して「私たちはもう黙らない」と立ち上がったのが今回の「ひとり街宣」ではなかったか。だから屈する必要なんてない。そもそも自立・自律した個人が、主体的に社会に参加していくことを批判される筋合いなんてないんだから。


「ひとり街宣」の熱を「カルト」と同一視する意見も見た。でも、まったく違う。なぜなら私たちは誰に命令されたわけでも洗脳されたわけでもなく、現状のさまざまな危機感に対して居ても立ってもいられずに、自分の意志で立ったんだから。たった一人の個として、自分の信じる正しさに向かい、勇気を出して孤独に思考し、判断し、行動しただけなんだから。それも、手弁当で。


日本のように上から抑え込まれる力が強いと、抗うのは面倒くさいし、人に決めてもらうほうが楽だと思いがちになる。でも、トップダウンだけでは社会は良くならない。市民たちが誰かに決めてもらわなくても自分たちで回していけるボトムアップのアナキズム精神を持っていることは、市民社会にとって重要なことだと思う。


実際に、日に日に路上に立つ仲間が増えたことも心強かった。挨拶を交わしたら、みんな示し合わせたかのようにバラバラに立つ。団子状にならないように心得て、それぞれの足で、それぞれの固有の意思で立ちながらもゆるやかに連帯した。この心地良さはすごかった。


それに路上では、見知らぬ方々が飲み物などをくれることが何度もあった。暑い中で立っている人に対しての応援の意味もあったと思う。東京で、路上で、こんなに利他的な行為を示してもらえたことがなかったからびっくりした。見習って私も違う街で立っている方を見かけたら、冷たい飲み物を差し入れするようにした。そうすることで、余計に助け合いのコミュニティが浮かび上がるのを実感できた。


「ひとり街宣」は「自分たちでやってやろう」というDIY精神と、相互扶助の実践でもあったと思う。何かに勝つことや自分の意見を通すことも大事だけど、他者と生きる「共生」はもっと大事。その数多の仲間たちが可視化され、励まし合い、協力できたことが何よりも嬉しくて、希望に満ちて、胸が熱くなった。


「ふざけんな」と立ち上がった経験があれば、「自分も案外やれる」と自信を持てる。今回の「ひとり街宣」で路上に立てた人たち、大丈夫です。一度立てたら、次も立てます。何も選挙に限ったことでなく、自分が気になるイシューに対して、思いをプラカに記して、一人で掲げていいんです。勇気は財産。だからみなさん、またそれぞれの路上で会いましょう。




綿貫大介(https://x.com/watanukinow

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