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天野太郎(横浜美術館 主席学芸員)「美術は近くにありて思ふもの」Vol.4 言語を剥ぎ取った先の可能性 後編 ゲスト: TAIGEN KAWABE(BO NIGEN)

天野「イギリスは移民のるつぼになっているから慣れっこだと思うんだけど、英語さえ話せれば世界中で通じるとどこかで日本人は信じているんだけど、70億くらいいる世界人口の内で英語を話す人は4分の1くらいしかいない。BO NINGENが日本語で歌うのも、通じるとか通じないということははっきり言ってどうでもいいんやろうと。むしろ言葉によって導かれるものは世の中にあるわけですよね。音楽にもあるし美術にもストーリーがあって。先に物語を思い出して『ああ、この話か』という風に。だけどそれは一方で、絵そのものを鑑賞してないわけです」

TAIGEN「わかります。僕はそれを可能性だと思っていて、僕が言っていることをストーリーで考えるのは千人のお客さんがいたとしたら千通りあるわけじゃないですか。僕が歌っていることが知りたかったら歌詞カードの英訳を見ればいい。それはそのアートの話と似てると思うんです。絵を観て、絵そのものがいいなと思って、ディスクリプションで歴史や背景を見て理解する二次理解は現代音楽でもあるんです。コンセプトがわからないと楽しめないものもありますけど、作品に力がないと後付けしても駄目だと思っているので。でも最初に入ってくる千通りのイメージこそ僕は可能性だと思っていて。イギリスでメジャーだったら英語で歌わないといけないという環境の中で僕たちみたいな日本人がやっていることは、観衆にはエキセントリックに映るみたいなんです」

天野「なるほど。ディスクリプションはあくまでディスクリプションなんだけれど、そういう力を借りないで聴いたり観たりするのは根性がいる。事実、美術館で全てのディスクリプション、あらゆるテキストを排除した展示室を作るのは不可能なんですよ。受容者からクレームがくる。『一体何の展覧会なのかくらいは書いてよ』と。美術館なので展示されている美術作品だけを観てもらったらいいんですけど、とは言えない。それはある意味悲しいことなんだけど、山に登って景色を見たら文句なく綺麗だとか言ってるわけです。何のキャプションもなくとも自分の服の好みは知っている。BO NINGENにしても、日本語で何かを伝えるということではなく、そこでの言葉は、演奏そのものを包括したある種の事態、シチュエーションを構成する要素にすぎない。シチュエーションそのものが伝えたいことの塊としてボンと投げられているわけだから、言語の問題というのはピックアップする必要もない話かなというのは強く思いました。

美術の世界では絵から言葉を消すこと、言葉の力に頼らないのが“モダン・ペインティング”と言われていたんです。見る人が思うこととは関係なく、これは絵そのものですという。それに近いなあと思ったんですね。そのこと自体がこちらに投げられているというのが面白いと思いましたね」

TAIGEN「すごくうれしいです。ありがとうございます!」

天野「色々考える、複数の感情が動いたのは間違いないですね。音自体に必ず意味を添えないと成立しないかというとそんなことはないわけで。イギリス人は少なくとも意味わかってないわけで、ただ単純に音としてそう聴こえてるわけやから。もちろん歌詞はある種のメッセージのように聴こえるんだけれど、そのメッセージ性を剥ぎ取ったときに、きっと日本人にとっても面白い作品に見えるんやろうなと思いました」

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