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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 
#37 20歳の恋人20歳の声




20年前は大学生だった。わたしは二十歳で、今では普通に知っている多くのことを、まだ知らずにいた。
そのひとつが軽石だった。
ひとつ年下の後輩が、わたしにとって人生3人目のボーイフレンドで、名前はヒカル。彼が軽石をわたしに教えてくれた。いや、教えてくれたというのとは、ちょっと違って、彼のアパートの風呂場に置いてあったそれを、わたしが自分の知識のひとつとして勝手に納めたのだ。
わたしがこれまで生きてきた40年で、バスルームを風呂場と呼ぶのは、そのヒカルの部屋のそれだけだ。わたしが育った家庭では、台所はキッチン、風呂場はバスルーム、居間はリビングと呼んでいた。ちなみに、玄関は玄関だったのだが。
わたしにとって、バスルームには、それ相応の外観と雰囲気の条件があって、それは幼い頃に過ごした実家のそれが基準になっている。
金持ちでもなんでもない、一般的な中流家庭だったが、バスルームは家全体の大きさに対して広々としていて、母が、なぜか常に念入りに掃除をしていたので、間違いなく家の中で一番清潔な場所だったし、生活感のある余計なものが置いていなかったので、ホテルのバスルームのイメージに近かった。家族の誰も、そのバスルームについて特に何かを語ることはなかったが、きっと誰もがそのバスルームを気に入っていたような気がする。
そして、ヒカルのアパートには、バスルームはなかった。あるのは、カビで黒ずんだ青緑色の四角いタイル貼りの壁と、やはりカビで黒ずんだスノコが敷かれた床、歪んでいるのが目視で確認できるようなアルミサッシの小窓、そして錆びた鎖がぶら下がっているクリーム色の換気扇、そして小さくて深いかつて白かったに違いない湯船からなる空間、それはまさしく風呂場であった。
ヒカルの部屋は、建物自体の築年数は古かったが、少ない家具や持ち物が几帳面に整えられていて、凛として見えた。清貧と呼んでもいいような知的な佇まいと言えなくもなかった。ひと間の空間に付属した台所スペースも、生活感がほぼなく、最小限の調理道具類があるだけで、シンクまわりも清潔であった。
だが、なぜか風呂場はカビていた。まるで何かの実験意図があるかのようだった。もしくは何かへの復讐のような気配もあった。
当時のわたしが、それについてヒカルに何か言ったかどうか、今では全く覚えていないが、あの風呂場の光景はしっかりと記憶している。
わたしは、その風呂場の湯船に浸かったことは、一度もなかったが、シャワーをする時に、いつも湯船の縁に腰掛けて、楕円形の軽石で踵を無心にこすっていた。
今思うと不思議なのだが、わたしの実家のバスルームには軽石がなかった。だから、最初はおそらく物珍しかったのだろう。カビた風呂場の中で、その軽石だけは、真新しくて清潔だった。軽石を当てた後で、踵を触ると、角質が削げ落ちたことがよく分かった。わたしの踵は新品のようにつるつると滑り、その感触に感動したこともよく覚えている。
だからといって、その感動のままに、自分の家のバスルームに軽石を置くことはしなかった。おそらくバスルームの完璧な調和を乱すのが嫌だったのだろう。今思えば、馬鹿馬鹿しいのだが、当時は、軽石がバスルームに属する違和感を避けるのが正しい選択だった。
わたしは週に一度くらいのペースでヒカルのアパートに泊まっていたはずだから、軽石もその頻度でわたしの踵に当てられていたはずだ。
付き合うというのは、それを象徴的に示す場面がいくつかあるもので、例えばそれはいつも通っていたカフェだったり、それこそベッドだったり、車だったり、図書館だったり、バイト先だったり。
わたしとヒカルの関係では、ひとつの軽石を共有している風呂場が、それだった。もちろん、ヒカルは別な場面を支持すると思うのだけど。
だけど、ヒカルは卒業を待たずに死んでしまったので、今となっては確認できないし、聞けたとしても、さあな、と彼の口癖をつぶやくだけだろう。軽石?ああ、そうなんだ、とわたしの話に対して興味なさそうに返事をするのも想像できる。
ヒカル、そうなんだよ、君は、軽石をわたしにブリングしてくれた人。ちなみに、わたしたちの間で、ブリングする、という言い方がちょっとだけ流行ったことがあった。たとえば、この授業は、君に何もブリングしてくれない、とか、あそこのアイスは、哀愁をブリングしてくれる、とか、わたしも若かったので、そういうのが面白かったのだ。
ヒカル、わたしは君に何かをブリングしたと思うのだけど、それは何だったのだろう。


軽石が、わたしの半生に再び登場するのは、やはりバスルームでのことだ。考えてみれば、軽石にふさわしい場所は、そこくらいで、それはちょっとだけ不倫していた取引先の男の仕事用に借りていた部屋のバスルームにあった。
作詞家という珍しい職業をその男はいつも恥じているようで、あまり多くを語りたがらなかった。主にアイドルグループの作詞を担当していたのも、恥ずかしさの原因だったのかもしれない。わたしは28で、彼は48だったと記憶している。20の年の差というのは、彼がベッドでそのことについて呟いて、勝手に興奮していたので忘れようもない。まるで娘のようなもんだよな、といつもセックスの最中にだけ言っていたので、わたしもなんだか変な気持ち、とか言って、興奮したふりをしていたけど、結局あのセリフが彼の作詞の限界をほのかに感じさせていた。
だが、才能というのは、わたしなんかの想像の及ばないものらしく、半年ぐらいで会わなくなったあとも、しばらく彼の名は、自然とわたしの生活圏にも届いていた。娘のようなものに興奮する感性がどんな言葉をアイドルたちに歌わせていたのか。
とはいえ、あの彼が今はどうなっているのか全く知らない。そもそもアイドルグループはもちろんのこと、流行っている日本の音楽というものから、結構遠のいてしまっているからだ。
振り返れば、ある時期までは、予期したような人生を送るものだが、つまりそれは就職して間もなくくらいまでは、誰もが似たり寄ったりの生活を送るのだが、どこからか、それぞれに最適化されたような場所へと漂っていく。
同じような場所で、同じような服を着て、同じようなゲームをして、同じようなSNSで発信して、予期していたような似たり寄ったりの人生を周回するように、それらは見えるけれど、その見え方はとても表面的で、実際は混沌としていることがベースで、みんなが散り散りになって迷ってしまわないように、様々な装置が救命道具のように用意されているようにも思える。休み時間が終われば、戻らなければいけない教室や仕事場があるからこそ、わたしたちはどうにかこの世界に留まっていられる、そんな感じだ。
作詞家は、わたしの身体の角っぽいところを軽石でこするのが好きだった。あんまりだと皮膚がむけるから気をつけて、とわたしが言うと、いつも喜んでくれた。わたしはけっして綺麗ではないけれど、人によってはどちらかと言えばブスの部類だと思うけれど、なぜか男の人たちは、わたしに気を許してしまうことが多かった。
オマエは通に受けるブスだよな、と言われたこともあった。いろんな面でいい塩梅なんだそうだ。共に過ごせば、気負わずにいられ、ふと気づけば、既にかなり気を許してる関係になっていて、セックスもよくて、頭が切れすぎす、かといって決して馬鹿ではなく、いやらしい体をしていて、時々どきりと気の利いたことが言えて、知らず知らずはまってしまう女らしい。




 
そして、今日、わたしは、庭に立ち、地植えしたアガベの株を眺めながら、ふと軽石に気をとられた流れで、2人の男を思い出していたわけだ。
今朝方、宮崎の、あるビーチで軽石を拾って来たばかりだ。軽石といっても、わたしの2つの記憶に出てくるような、踵をこする大きさのものではなくて、砂利のような軽石だ。それらは、はるか小笠原海域から流れ着いたものだという。ニュースによれば、海底火山の噴火によって海中に放出されたマグマが冷えて軽石となり、潮の流れによって運ばれたのだとか。それは数ヶ月前に沖縄に漂着し、最近になって宮崎にも届いたものだ。沖縄に住む友人の話だと、いつくかの試験によって、それらを土に混ぜ込んで使用しても、塩害などの被害はないという結果が出たということだった。沖縄の土は水捌けが悪いので、農業利用が検討されているという。
軽石が宮崎にも漂着したというニュースで、わたしはゴミ出し用の袋と、シャベルを用意して、すぐさまそのビーチに向かった。
軽石という名前のイメージとは違って、乾き切っていない砂利状の軽石は、結構な重さだった。ゴミ袋に目一杯に詰めたら、女の手では持ち上げることすら出来なかった。仕方なく半分だけ詰めたもの2袋を持ち帰ることになった。2袋持ってきたのに、1袋分しか採取できないというのは、なんだか不思議な気がした。知能指数テストに出題されたら、知恵のある小学生なら、最適解を導くのだろうか。半袋分を一旦車まで運び、空いている1方の空袋を持ってビーチへ行き、やはり半分だけ詰めて車に戻って最初の袋へ移し、1袋目を満タンにする。再び空になった2袋目に再度半分だけ詰めて車に戻る。こうすれば、1.5袋分は持ち帰れる。わたしの知恵ではここまでだった。どうやっても2袋分は不可能に思えた。
家に戻ると、庭にその1.5袋分の軽石を撒いた。地植えしたアガベの株間のグラウンドカバーとして、雑草が生えてくるのを防ぐためもあるが、ドライガーデンコーナーを造りたかったというのが一番の理由だ。アガベの自生地であるメキシコの荒野の環境に寄せたかいあって、見栄えは想像以上だった。
実際軽石を撒かれたアガベコーナーは、美しかった。ホームセンターで扱われている園芸用の軽石は、もっと白くて夏になれば、眩しすぎるだろう。小笠原の軽石はグレーで、その色の軽石は珍しく、なかなか手に入らないものだった。採取の手間はかかるが、無料である。さらにビーチクリーンという意義もある。
わたしは、軽石が撒かれた新装のアガベガーデンを満たされた思い出眺めていた。そして、軽石を思うばかりに、軽石にまつわる2人の男まで思い出したというわけだ。
高校1年生と中学2年生の2人の息子を学校に送り出してしまうと、あとはデイトレーダーとしての仕事をこなすだけなので、時間の融通はつく。デイトレーダーといっても、パートがわりに月に15〜20万ほどを手堅く稼ぐ程度の小口個人トレーダーだ。
あの2人の男と過ごしていた20と28才の頃のわたしは、40才になったら宮崎に住んで、主婦兼デイトレーダーをしつつ、サーフィンとガーデニングを趣味とするなんて、想像していなかった。
39才のヒカルは今でも軽石を風呂場に置いているのだろうか。結婚して、風呂場ではなく、バスルームでシャワーを浴びているのだろうか。子供達に向かって、どんなことを教えたりしているのだろうか。几帳面なヒカルは、きっと部屋の整理整頓を口すっぱく注意しているのかもしれない。
60才の作詞家は、まだ作詞をしているのだろうか。言葉が尽きていないのなら、きっとあの人は嘘を言っているのだろう。わたしには、伝えることはそんなに多くないから、それ以上は繰り返しか、本心でない嘘になる。作詞家はきっと時々わたしを思い出していると思う。目の前に軽石がなくても、きっと軽石のことを思いつき、わたしのかかとを擦ったことをぼんやり力なく思い出しているような気がする。そこは眺めのいい部屋で、きっと眼下には、東京郊外の田園か、都心のビル群が見えているのだろう。それは成功者が持つ眺めかもしれない。
いや、違う。忘れていたが、ヒカルは20才で死んでいたのだ。彼は39才を迎えてなどいない。わたしは目の前のアガベが揺れるのを見た。ヒカル。わたしは思わず、その名前を小さく口にした。その時の、わたしの声はいつになく若かった。きっと20才の頃のわたしの声はそんなだっただろう。わたしは20年前に、ただ若かったわけでなく、声も若かった。そして、その若い声で、ヒカルの名前をほぼ毎日呼んでいた。今の声で、ヒカルを呼んでも、きっと彼は振り向けないだろう。
ヒカルは、ずっとずっとあの時の声で、わたしの思い出に現れて、何かを喋る。わたしの声はやがておばあさんの声になる。おばあさんの声と20歳の男の子の声は、何を語り合えるのだろう。明日、バスルームの軽石を新調しよう。
 





#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
#16 コロナウイルスと祈り2
#17 ブロメリア
#18 サガリバナ
#19 武蔵関から上石神井へ
#20 岩波文庫と彼女
#21 大輔のホットドッグ
#22 北で手を振る人たち
#23 マスク越しの恋
#24 南極の石 日本の空
#25 縄文の初恋
#26 志織のキャップ
#27 岸を旅する人
#28 うなぎと蕎麦
#29 その部分の皮膚
#30 ZEN-は黒いのか
#31 ブラジリアン柔術
#32 貴様も猫である
#33 君の終わりのはじまり
#34 love is not tourism
#35 モンゴルペルシアネイティブアメリカン
#36 お金が増えるとしたら


藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある
 

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