「その石、本当に南極の石だって信じてるの?」
すでに三十代後半のアンドレアの表情は、寝起きのせいかちょっと疲れて見える。金色の髪も慌ててブラシを入れただけみたいに、数カ所が跳ねたままだ。背後に見える木枠の窓の外のブエノスアイレスは、空ばかり映っていて、その空自体も東京の空となんら変わらない。それはカイロの空やモスクワの空ともほとんど同じようなものだ。
「うん、疑ったことはない。アンドレアがそう言ってくれたんだから」
僕がそう答えると、ノートパソコンのモニターの中のアンドレアは、満足そうに微笑んで小さく頷く。ターコイズ色の瞳と青白い肌は、僕が南米人に勝手に思い描く太陽のイメージからほど遠く、一見不健康そうにすら見え、北欧の白夜の世界から来た人のようだと、いつものように僕は思う。
「そうよ、わたしの祖先はドイツ人だから、ヒカルの抱く南米人のイメージとは違うのよ」
アンドレアは僕の表情から心の内を読み取って、少し意地悪そうに微笑む。15年前にブエノスアイレスで彼女と出会った時に、僕が伝えた言葉をいまだにアンドレアは覚えていて、会話の中にそれを挟むことが多かった。
あの時僕は確かこう言ったのだ。「南米の人って、もっと日焼けしていて、ダークヘアで、いつも笑っているのかと思っていた」
今思えば、無知でしかないが、南米に対する僕のイメージは、実は今でもそんなに変わっていない。
「アルゼンチンはイタリアから、チリはドイツからの移民が多いの。それが今の国民性に表れているのよ。快楽主義と現実主義。わたしはドイツ系のアルゼンチン人だから、どっちつかずなんだけどね。パスタとビールを同時に注文してしまうセンスって言えば分かりやすいでしょ?」
「僕は生粋の日本人だけど、パスタとビールを普通に注文しちゃうけどな」
僕は、生粋という言葉に少しだけ引っかかりながらそう答えた。
「ただの例えよ。わたしだって、夏の暑い日には、その組み合わせがお気に入りだし」
アンドレアは、そう言ってワハハと笑った。その笑い声と表情は、日本人がイメージする開放的で楽天的な南米人のそのもので、モニターの右上の四角形の中に映る自分の表情の対照的なつまらなさが気になって、口角を気づかれないように上げてみた。
久しぶりの姿を見せ合いながらの会話は、それがモニター越しだとはいえ、新鮮だった。数年ぶりだろうか。東京では非常事態宣言が再び発令されたというのに、なんだか呑気なものだった。アンドレアのいるブエノスアイレスは地球の裏側だが、隣の部屋と繋がっているような気さえした。
「で、ヒカル、その石、本当に南極の石だって信じてる?」
話を戻しながら、アンドレアは肩にかかる金髪を右手で後ろへ払った。彼女が目論む今日の話題の中心は、どうやら石にあるらしい。といっても、その話を先に振ったのは僕の方だった。久しぶりにアンドレアと話すので、前もって石を手元に置いておき、見せる準備をしておいたのだ。ずしりと重いその南極の石を両手の平の間で交互に行き来させながら、改めて僕はまじまじと石を見つめてみた。
黒々としたその石は、見かけからしても重そうなのだが、実際持つと想像の上をいく重さがあった。旅の荷物をなるべく軽くすることに熱心だった15年前の僕が(今でもその習慣は変わっていない)、2116グラムもある石を、南半球から北半球へ移動させたのは、それがアンドレアからのプレゼントだからという理由に加えて、心底気に入ったからだった。
もともと石が好きで、ビーチや河原に行けば、知らず知らずに落とし物を見つけるように石を探してしまうタイプだった。そんなわけだから、ちょっとした目利を自負していた。ちょっと話を広げるなら、古来より石には霊力があるとされ、僕は実際様々な石と出会うことで、その霊力を自然に信じるようになっていた。
石に惹かれる人は、少なくない。彼らがなぜ石に惹かれてしまうのかは、それぞれに理由があるのだろうが、僕は石の霊力が働いていると考えている。もちろんパワーストーンというものがあるように、この感じ方は当たり前なのかもしれないが、ショップで並ぶものを選ぶのとは違う楽しさが、自然石採集にはある。
それは貴重だとか高価だとかという物差しではなくて、分類的にはありふれた石であったとして、海辺や河原には特別に思える石があって、その出会いが楽しいとも言える。
「ねえ、ヒカル、どう思う?」
アンドレアは、もう待ちきれないといった笑顔で、体を揺すってそわそわしている。
「本物にきまっているよ。もし偽物だったら、15年前のアンドレアがわざわざ僕にプレゼントするわけないでしょ?」
そうなのだ。15年前のブエノスアイレス、タンゴダンス教室に観光客丸出しで出かけた僕の相手をしてくれたのが、アンドレアだった。僕がスペイン語がある程度できたせいもあってか、二人はすぐさま意気投合し、ブエノスアイレスの数日を一緒に過ごすことになった。そしてお別れの日に、彼女が僕に南極の石だといって渡してくれたのが、今でも東京の僕の部屋にあるというわけだ。
空港まで見送りに来てくれたアンドレアは、「わたしのキスをよけた最初で最後の男よ、」と僕に言いながら、その黒くて重い石を僕の胸に押し付けるように渡した。
「誤解してるけど、嫌だったからとかじゃなくて、びっくりして思わず顔をそむけただけだよ」
「そうだとしても、男は女からのキスを拒んだりしないものよ。日本の男はみんなインポなの?」
ワハハというアンドレアの豪快な笑い声に、ターミナルに居合わせた人たちがこちらに顔を向けたが、僕たちは気にせずに、とても自然にキスをしたのだった。僕にとっては、後にも先にも空港でキスをしたことは、あの時以外ない。まるで映画の中にいるようだな、ここに住んだら、そんな気分で一生を送れるのかな、キスをしながら僕はそんなことを考えていたことを覚えている。そのことはアンドレアには言っていないけれど。
「ゲームオーバー、トゥビーコンティニュード」
アハハと再び豪快に笑いながら、なぜか英語でアンドレアはそう言い残し、さっさと背中を向けて去っていったのだ。小走りで去っていく彼女がなんだか華奢に見えた。泣いているのかもしれない、とあの時感じたのを覚えている。
「ビンゴ!そう、あれは本物よ。わたしが小さい時に、叔父が働く南極の基地に遊びに行った時に、拾ってきたの。だから間違いなく、本物よ。」
アンドレアは自分がクリスマスプレゼントを貰ったかのような顔をして、大袈裟な身振りで嬉しさを僕に伝えていた。
「そんな貴重なものを、もらっちゃって良かったのかな。今さらだけど。」
「プレゼントってそういうものでしょう?少なくとも、15年前のわたしは、一番の宝物をヒカルに渡したかったの。本当よ、あの時のわたしには、あの石が一番の宝物だったんだから」
「そうか、ありがとう。この石は、僕がこれまでもらったどんなプレゼントよりも素晴らしいものだよ、ほんとうに。なんていうか、この石がとても好きなんだ。いつもそばに置いてあるし、気が向けば出張先や旅行先にも連れていくこともあるくらいなんだ」
アンドレアは僕の言葉を一字一句聞き逃さないぞといった感じで身を乗り出していた。もちろんこぼれるような笑顔と共に。
「そして、次はヒカルの番よ」
アンドレアは少しだけ意地悪そうな目で僕を見つめた。正確に言うと、ブエノスアイレスの部屋にある彼女のノートパソコンのレンズを見つめたことになる。
「つまり、プレゼントをアンドレアに僕から渡すってことだよね?」
「そう、そう、その通り。さすが日本人ね、頭がいい」
実は、すでにプレゼントのお返しは15年前に送っていた。中身は僕が小学生の時に登った富士山頂上から持ち帰った石だった。南極の石とは違い、富士山の石は見かけだけは重厚なのだが、中身がすかすかで持つと軽石のようだった。僕は隕石のように見える黒々としたその石を大切にしてきたので、南極の石に見合うものはこれしかないと考えたのだった。僕はその石に、短い手紙をスペイン語で書いて添えた。ちょうど家にあった虎屋の空き箱に入れて、郵便局から送った。
富士山の石が、太平洋もしくは大西洋を越えて、南米大陸まで届いたのかどうかは結局分からずじまいだった。アンドレアからの返事はなく、そのことについて僕も触れなかったからだ。
ただ確かなことは、富士山の石は、今でも地球上の何処かにあって、日本のとある倉庫の片隅で埃を被っているのかもしれないし、アルゼンチンの誰かの庭に転がっているのかもしれない。もしくは粉々に砕けてしまって土に還ってしまっているのかもしれない。
ただ、重要なのは、それは物質的に消滅したのではないということ。かなり高い確率で地球上にあるはずなのだ。僕はそのことが、神話のように揺らいでいるようにも、数学の解のようにすくっとこの世で背筋を伸ばしているようにも感じられる。存在すると言うことは、決して見えるところにあることを意味するのではない。
「こういうのがプレゼントになるのかは、分からないけれど」
僕は思いついたことを言いかけてやめた。きっとこういうことを軽々しく言うべき相手ではない気がしたからだ。
「きっと素晴らしいプレゼントになるわ。さあ、続きを言って」
アンドレアは首を少し傾けて、子供が何か告白するのを聞こうとする親のような微笑みを浮かべた。
「15年ぶりにブエノスアイレスに行こうと思うんだ。どうかな、これってプレゼントになるかな?」
一旦は躊躇したけれど、アンドレアの微笑みにつられて言葉を引っ込めたままではいられなくなった。
「コロナが去ったら、ヒカルはその約束を果たしてね」
そう言って微笑むアンドレアだったが、ワハハとは笑わなかった。気のせいかもしれないが、瞳の中に少し陰りが見えたような気がした。
「ねえ、ヒカル、私の血には、情熱と理性があるのよ。ドイツ系アルゼンチン人だから。この話はさっきもしたわよね。で、ね、つまり、私にはヒカルを歓迎する情熱もあるし、今さら会ってどうするのっている理性もあるのよ。わたしが今でも思うのは、ヒカルは14年前にブエノスアイレスに戻るべきだったということ。そうしたら、わたしたちは友人以上の関係になっていたって思うの。そうじゃない?」
「ああ、そうかもしれない」
僕は彼女が冗談で言っているのかよく分からなかったから、曖昧に答えて微笑んだ。
「もし、これからずっと会えなかったら、わたしはヒカルにとって25歳のままだし、タンゴを一緒に踊ったいい香りのするパートナーとして記憶に残り続けるでしょう?私のお尻が垂れて、胸がしぼんでいく姿をあなたは実際に見なくて済むのよ。こうしてモニターの中でお喋りしているだけなら、半分架空の物語でいられるじゃない?今ヒカルの部屋に見えている東京の空は、別に特別ではないし、なんならブエノスアイレスの空と同じようなものね。こんなふうに実体のないコミュニケーションが主流になるなら、それはそれよね」
アンドレアは、再びワハハと笑った。
「でもね、わたしはあなたともう一度キスがしたいの。ただそれだけのことなの」
僕は少しだけあっけにとられたけれど、悪い気はしなかった。そしてできるなら僕もそうしたいと思った。
「でね、お礼の言葉は、ヒカルがブエノスアイレスに戻った時に言おうと思っていたんだけど、」
その言葉のあとに、彼女はモニターに映っていない場所に手を伸ばして、何かをつかんだ。そして、それにキスをしてから両手で僕の方へと差し出すようにして見せた。僕は思わず顔をモニターへと近づけていた。
9歳の僕が見つけたこの石は富士山の頂上で、僕に拾われるまでずっとずっとそこにあったものです。それから僕の部屋で僕と共に二十年間過ごした後で、日本を離れ、アルゼンチンへと旅をしました。これからはずっと君のものです。南極の石がずっと自分のそばにいるように、富士山の石がずっと君のそばにいてくれますように。そしていつか、二つの石が出会えますように。
アンドレアは、15年前の僕の手紙を読み終えると、微笑みながら手を振って、アクセスを切断した。僕は彼女と富士山の石が消えたモニターに反射して映る自分をしばらく見つめていた。僕は情熱と理性について考えることになった。
#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
#10 19, 17
#11 S池の恋人
#12 歩け歩けおじさん
#13 セルフビルド
#14 瀬戸の時間
#15 コロナウイルスと祈り
#16 コロナウイルスと祈り2
#17 ブロメリア
#18 サガリバナ
#19 武蔵関から上石神井へ
#20 岩波文庫と彼女
#21 大輔のホットドッグ
#22 北で手を振る人たち
#23 マスク越しの恋
藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある