「私はいったい何者なのでしょうねー?」という問いに、「近々、そういう問いから解放されるでしょうね」と答えたC女史、などなど。施術部屋を出る時は、晴れ晴れとして、ちょっとした生まれ変わりさえ感じられた。
その最初の気内臓体験が、良かったので、今度は旧市街にある療法家T先生を訪ねた。わずかに移転していたので、少し迷って到着すると、出迎えてくれた三十代の若々しく体格のいい青年風情の方が、T先生だった。体育教師と紹介されたら信じただろう。
まあ、水でも飲みなさいと、高さ五十センチの壷に入った水を柄杓でコップに移し、それを勧められた。衛生、という単語がよぎったが、結構歩いた後だったので、それをごくごく飲み干した。T先生は、茹でたトウモロコシを美味そうに齧りながら、日本人の女性アシスタントに説明を任せて、にこにこしていた。
早速二階の風通しの良い広間で受けることとあいなった。指定されたタイパンツに着替え、木製のどっしりとした施術台が二つ並んだうちの一つに仰向けになると、T先生が傍らに立ち、大振りな動作で祈祷のようなものを始め出した。私は目を閉じ終了まで開けずに受けた。前回のC女史のようなラグジュアリー感はなく、土着感が増し、ちらり垣間見た祈祷の印象で、呪術的にさえ思え、楽しみと不安半々で小一時間過ごした。
感想を一言で済ますなら、やはり痛かった。C女史のものは鋭かったが、T先生のものは鈍く重い痛みで、痛みの時間ははるかにT先生の方だった。施術前に、「ここのは、リラクゼーションではなく、治療だから痛いよ」と念を押されてはいたが、その通りに痛かった。
術後はやはり晴れやかだったが、痛みからの開放感のためか、デトックスのせいなのか、違いは良く分からなかったが、混じり合ってのものかもしれない。ただ、それがどうなってこうなったにせよ、身体と心は軽く、うきうきした。
去り際にT先生に三日後にまた来なさいと勧められ、言われた通りに後日再び参上した。
さすがに二回目だったので、祈祷にもひるまず、初回よりもゆったりと望めたが、痛さは変わらなかった。先生の説明によれば、内臓のそれぞれは、別々の感情に対応し、たとえば、肝臓は怒り・親切、胃は心配・公正、肺は悲しみ・勇気、腎臓は恐れ・優しさ、などである。それぞれに、ポジティブな面、ネガティブな面があり、不調だとそのネガティブな面が溜まりやすく、押すと痛みとして感じるという。
痛い箇所だらけだった私は、むむむと内省するより他は無く、さてさてと気持ちを切り替えて、こともあろうに、この気内臓療法を学んでやろうではないか、とその場で決心した。
どうせなら、より痛い方を学んでおけば、弱さへの調整はしやすかろうと、単純に考え、T先生に教わることにした。
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