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text by Meisa Fujishiro
photo by Meisa Fujishiro

藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#62

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 いわゆる健康オタクでもないし、諳んじられる知識もごく僅かだ。ストイックでもないし、取り組み方もいい加減でいいとさえ思っているほどだ。ただ、健康に留意したり、新しいヒーリングを試すことを楽しいと感じられる。健康を維持するゲームをしているような感覚に近い。当たればラッキーとクジを引いているぐらいの気軽さでやっている。

 このような感じで一つ一つを遊び心で取り組んでいても、いろんなことに手を出せば、知らないうちに経験値は上がり、全く異なるヒーリング間にも、共通点を見出し、その共通項をシンプルに並べていくと、ヒーリングの要点が見えてくる。科学的なものとスピリチュアルなものとでも、共通点は見いだせる。

 その共通点は、客観的にというよりもかなり主観的、直感的に選ばれることが多い。同じ映画を見ても感動する場面が人によって異なるようにだ。なので、こればかりは個人として多くを試しながら、オリジナルな解釈で共通点を見つけていくのがいいと思う。

そしてアップデートを忘れずにすることも大切だ。

 例えば、私はワークショップを催すほどに瞑想を大切にしているが、経験としても知識としても、常に本や瞑想会を通して、新しい気づきを入れるように心がけている。同じ本を何度でも読み返したりもする。エネルギーは流れさせておくべきもので、十分な経験を積んでも、形骸化しないためにそうするようにしている。

 そして、硬い骨さえ5年サイクルで細胞の全てが入れ替わるように、ちょっとでも違和感を持ったら、これまで大切にしてきたヒーリング方法を一旦手放す勇気も大切である。永遠の別れをするわけではない。必要となったら、また再開すればいい。それができないとただの執着になってしまう。執着は仏教でも手放すべきものとされている欲望の悲しいなれの姿である。これは物や人間関係にも当てはまるだろう。

 南方熊楠は、若い頃に存分に海外を見聞して歩き、その後は日本の山中に生涯留まり続け菌の研究に没頭した。もう外を見る必要はなく、山にいて宇宙を見る心境だったのだろう。身は一所にあっても、心や胸の中には宇宙の風が吹き抜けていたのである。アップデートといっても、あくせく動き回る必要はない。落ち着いて、ただ心を自由に泳がせておくような心持ちで取り組みたい。

 思えば、ヒーリングの目的は、心を自由に遊ばせておくことかもしれない。心が固まると、身も強張り、気、血、体液の流れが悪くなり、不調をもたらす。


 

何も持たずに生まれて来て、何も持たずに去る。


これはどんな人にも当てはまる事実だと思う。墓には何も持っていけないと誰もが言うが、その通りなのだ。なのに、生涯かけて積み木を乗せ続け高さを競って何になるのだろう。幻の塔だったと最後の一息を吐いて気づくとき、そこにどれだけの満足があるだろうか。明日の幸福のために今日の幸福を我慢して自分を滅し、生涯の唯一の日を無駄にしていないだろうか。明日へ持ち越された希望や光は、順繰りに先延ばしされ、最後の日に受け取れることになるのだろうか。



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