で、話を戻すと、そういうこともあり、スピリチャル系の本を友人に勧めたりすることも、それほど気にせずできる風土なのだろう。そして、その本はとても興味深いものであった。A5サイズで467ページにぎっしり小さめな字で綴られているのに、するすると読み進めることができた。この手の本に向けられがちな疑念を一つも持たずに済んだことも不思議で、全体として納得がいく内容であった。そして、スピリチュアルヒーラーという職業に接して、世の中にはこんな生き方もあるのだなあと、まず感心した。
守護霊について、腑に落ちることがこの本に書いてあったと、今回改めて読んでみたのでだが、私の思い違いだったのか、そこには言及していなかった。もしくは、見つけられなかった。私の記憶では、霊界には、守護霊、指導霊、大霊が存在していて、大霊は、全宇宙を司る大きな力、もしくは神に置き換えられる。守護霊は、私たちをいつも見守ってくれている存在で、それに対し指導霊はコーチみたいなもので、魂の成長とともに入れ替わったりする。確か、そういうことが記されていたはずであった。
ともかく私は、守護霊、指導霊、大霊という区分けに、妙に納得し、1日の始まりの瞑想には、彼らに今日1日よろしくお願いします、と心の中で声をかけ、1日の終わりの瞑想では、今日もありがとうございました、と感謝するのが習慣になった。現在、いずれの宗教に属していない私ではあるが、これもひとつの信仰だと認めている。目には見えないが確かにある何かを信じるということは、ひとまず謙虚になれるというメリットがある。そして何かに守ってもらえているということで安心感がもたらされる。
私たちの全ては、母親からこの世に生まれた。胎内という優しく心地よい海から出て、母と繋がったヘソの尾を切られ、突然一人になってしまった孤独を癒してくれたのは、母親であり、父親であったろう。私たちは、無償の愛を心だけでなく体の養分として、成長を果たしてきた。もちろん、受ける愛は親や環境によって差はある。求めるに足りる十分な愛を受けずに成長してきた人もいるだろう。幼い頃の私は、愛されることに敏感であったように思う。実際はどうであれ、不足気味に感じていた。基準値などないのだから、これは個人の感覚のよるところであり、持って生まれた欠落感と一生付き合うことになっている人もいるだろう。もともと新しい命の成長や発展のための方向づけが、欠落感として仕組まれている可能性もある。
幼い日に感じていた「遠さ」に似た悲しみは、どこから来てどこへと生きていくのだろう、という痛みを伴って、いまだに拭えていない。ただ、本当の意味での孤独は感じていなかった。目に見えている親とは別に、何かに守られている感覚ははっきりとあったからだ。無論、宗教の概念が知識として入る以前の頃からだ。おそらくそれが守護霊や指導霊と後日知ることになるものだったと思う。
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