去年末に9歳の長男を連れてヒマラヤに一週間ほど滞在した。世界十番目の高さを誇るアンナプルナ峰のベースキャンプは標高四千百三十メートル。そこまで歩山することになった。その位の高さだと、登山を思う人も多いと思うが、あれは歩山。片道四日ほどかけて整備されたトレッキング道や村と村とを結ぶ生活道を歩いて行けば、だいたいの人は辿り着けると思う。現に九歳児が高山病にならずに歩き付けたのが何よりもの証拠。
もちろん高山病は人によるので、だれもが上手くいくとは限らないが、一日に上げる標高の上限を五百メートルにしておけば、被病率はかなり下がるだろう。
単純に標高だけで計れはしないが、目安として森林限界を超えても両手両足を使って登る場面がなければ、それは歩山と私は呼んでいる。富士山も歩山であるし、アフリカの最高峰も歩山と言えるだろう。
技術を必要とせずに、ただ歩いて上がっていく山行きを、私は歩山とし、自分の肩書きに歩山家を加えようかと真面目に検討中である。
そして、ヒーリングの一つとして歩山を勧めていこうとも思っている。低地での森歩きも素晴らしのだが、やはり少しずつ高度を上げて行き、有酸素運動量を増しつつ、植生の変化を愉しみながらの歩山はちょっと森歩きの先にあると思う。
古今東西古来より、山は聖なる土地とされてきたのは、やはり理由があるのだろう。山には神が住んでいると様々な伝説が語っている。そして、山そのものが神だとも。
その伝に寄るならば、きっとそこに住む生物たちも神の一部であるし、そこに入っていくことは、神に近づくことに違いない。
目に見えないものへの感度というのは、山に入ることで取り戻せるのではないか。本来備わっているはずの機能を再起動させて、自己治癒力を高めていく。生命力を高める。きっとそれは、街のジムでは、どうしたって得られない種類のもので、山こそが最高の場所ではないのか。
効率という言葉によって私達は無駄を省く習慣があるけれど、ゆっくり山を歩くことが、実は一番効率の良いセルフヒーリング法なのではないだろうか。綺麗な空気と山の神気。程よい運動。植物、動物からの平和な愛情。長寿な岩石の祈り。遠くからやって来る風。山ではそれぞれの存在があるべき形で生きている。
一カ所に集まりすぎることで、他者の姿を見すぎて自分を失った人間の一人が何かを快復するには、山の正しい存在に囲まれて、そこから影響を受けるのが、最も効率が良いことではないか。
私はヒマラヤを長男と毎日7、8時間も歩山しながら、不思議と日ごとに自分が強くなっていくのを感じていた。そして、健康になるということは、美しくなると同じだとも。
強く、美しく、そして優しく在りたい。私は、マチャプチャレやアンナプルナに囲まれて歩山しながら、そんなことをぼんやりとじっくりと感じていた。
だからと言って山に居続けるのではなく、山から街へ、海へ、川へ、谷へと歩き続けようと思った。
二足歩行という不思議な歩行を身につけてしまった人類の一個人がどこまで歩けるか、それをいつまでも愉しもうと丹田で願っている。
(つづく)
※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#14」は2015年2月19日(木)アップ予定。