ヒルマ・アフ・クリント 《10の最大物,グループIV,No. 3,青年期》 1907年 テンペラ・紙(キャンバスに貼付) 321×240cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of the Hilma af Klint Foundation
東京国立近代美術館にて「ヒルマ・アフ・クリント展」が2025年3月4日(火)から6月15日(日) に開催。
抽象絵画の先駆者、ヒルマ・アフ・クリント(1862-1944)のアジア初となる大回顧展となる。
20世紀初頭、ワシリー・カンディンスキーやピエト・モンドリアンといった同時代のアーティストに先駆け、抽象絵画を創案した画家として、近年再評価が高まるヒルマ・アフ・クリント。19世紀後半のスウェーデンに生まれたアフ・クリントは、王立芸術アカデミーで正統的な美術教育を受けた後、肖像画や風景画で評価を得、画家としてのキャリアをスタートさせた。一方で神秘主義思想に傾倒した彼女は、降霊術の体験などを通して、アカデミックな絵画とはまったく異なる抽象表現を生み出していく。そして1906年から1915年にかけて「神殿のための絵画」と呼ばれる全193点の抽象絵画を描き上げる。それらは自身が構想した神殿を飾るためのものだった。その後81歳で死去するまで制作を続けたが、作品はほとんど展示されることなく手元に残された。
彼女の残した1,000点を超える作品群、自身の思想を克明に記したノートなどは、長らく限られた人々に知られるばかりで、1980年代以降、ようやくいくつか の展覧会で紹介が始まる。潮目が変わったのは 21世紀に入ってからで、アフ・クリントは未知の画家として世界に驚きをもって迎えられることになる。
2013年にストックホルム近代美術館からスタートしたヨーロッパ巡回の回顧展でその全貌が明らかになり、100万人以上の動員を記録、また2018年にニューヨーク・グッゲンハイム美術館(アメリカ)で開催された回顧展においては、同館史上最大となる60万人の動員を記録。その注目は全世界的なものとなり、以降、世界各地で大規模な展覧会が開催され続けている。
アジア初の展覧会となる本展では、アフ・クリントのキャリアにおける最良の達成と言える、高さ3m超・10点組の絵画《10の最大物》(1907年) をはじめ、すべて初来日となる作品約140点が出品される。代表的作品群「神殿のための絵画」を中心に構成し、画家が残したスケッチやノートなどの資料、同時代の神秘主義思想・自然科学・社会思想・女性運動といった多様な制作の源の紹介をまじえ、ヒルマ・アフ・クリントの画業の全容を見ることができる。
ヒルマ・アフ・クリント,ハムガータン(ストックホルム)のスタジオにて 1895年頃
ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of the Hilma af Klint Foundation
ヒルマ・アフ・クリント展
展覧会公式サイト https://art.nikkei.com/hilmaafklint/
会場 東京国立近代美術館 1F 企画展ギャラリー (〒102-8322 千代田区北の丸公園3-1)
会期 2025年3月4日(火)- 6月15日(日)
休館日 月曜日(ただし3月31日、5月5日は開館)、5月7日
開館時間 10:00-17:00(金曜・土曜は 10:00-20:00)※入館は閉館の30分前まで
主催 東京国立近代美術館、日本経済新聞社、NHK
協賛 DNP大日本印刷
特別協力 ヒルマ・アフ・クリント財団
後援 スウェーデン大使館
お問い合わせ 050-5541-8600(ハローダイヤル)
すべて日本初公開。
「神殿のための絵画」をはじめ約140点で画業の全貌を明らかに
画家の存命中、および死後も長らく展示されることのなかった作品約140点が一堂に。ヒルマ・アフ・クリントの今日の評価を決定づけた代表的作品群「神殿のための絵画」(1906 –1915年)を中心に、ノートやスケッチなど絵画以外の資料も展示し、画家の制作の源泉を探るとともに、画業の全貌を紹介。
ヒルマ・アフ・クリント 《10の最大物,グループIV,No. 7,成人期》 1907年 テンペラ・紙(キャンバスに貼付) 315×235cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of the Hilma af Klint Foundation
圧巻の大作《10の最大物》で体感する
無限の創造力
本展のハイライトは、代表的作品群「神殿のための絵画」のなかでも異例の巨大なサイズで描かれた《10の最大物》(1907年)。人生の四つの段階(幼年期、青年期、成人期、老年期)を描いた10点組の大作で、高さは3メートルを超える。多様な抽象的形象、画面からあふれでてくるようなパステルカラーの色彩、そして圧倒的なスケールは、観る者を一瞬で引き込み、まるで異空間を漂うかのような唯一無二の体験に誘う。
第1章 アカデミーでの教育から、職業画家へ
ヒルマ・アフ・クリントは1862年10月26日、ストックホルム(スウェーデン)の裕福な家庭の第4子として生まれた。父親のヴィクトルは海軍士官で、天文学、 航海術、数学などが身近にある環境は、後のアフ・クリントの制作 に大きな影響を与える。
1882年、アフ・クリントは王立芸術アカデミーに入学、正統的な美術教育を受けることに。アカデミーは1864年より本格的に女性の入学を認めていたとはいえ、女性のアーティストは当時のスウェーデンではまだ数少ない存在。在学中に制作された人体デッサンにおける正確な形態把握、あるいはこの時期に制作されたと思われる植物図鑑のように緻密な写生などからは、彼女が習得した技術の高さを見て取ることができる。
1887年、アカデミーを優れた成績で卒業したアフ・クリントは、主に肖像画や風景画を手がける職業画家としてのキャリアを順調にスタート。また児童書や医学書の挿画に関わったり、後にはスウェーデン女性芸術家協会 (1910年発足)の幹事という実務的な仕事を担ったりと、多方面で活躍を見せた。
ヒルマ・アフ・クリント 《ポピー》 制作年不詳 水彩、インク・紙 58×35.5cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of the Hilma af Klint Foundation
第2章 精神世界の探求
ヒルマ・アフ・クリントがスピリチュアリズム(心霊主義:人は肉体と霊魂からなり、肉体は消滅しても霊魂は存在し続け、現世へ働きかけてくるという思想)に関心を持ち始めたのは 1879年頃、彼女が17歳の時とされている。アカデミーでの美術教育 (1882–1887年)と並行しながら、スピリチュアリズム は アフ・クリントの思想や表現を形成し、決定づける要因となっていく。当時のストックホルムには神秘主義的思想(直観や幻視、瞑想、啓示などによって神や神秘に近づこうとする思想)を信奉する団体がいくつか存在していた。特に影響を受けたのは、ヘレナ・ブラヴァツキー(1831–1891) が提唱し、世界的に受容された神智学(しんちがく)だった。 アフ・クリントは瞑想や降霊術の集いに頻繁に参加し、知識を深めていく。
1896年、特に親しい4人の女性と「5人(De Fem)」というグループを結成し、以降、1908年頃まで活動。彼女たちは降霊術におけるトランス状態において、高次の霊的存在からメッセージを受け取り、それらを自動書記や自動描画によって記録した。残されたドローイングの数は膨大で、波線の連なりが続くシンプルなものから、植物、細胞、天体など具体的なモチーフが認められるものなどヴァリエーションも多岐にわたる。アフ・クリントはこの体験を通じて、自然描写に根ざしたアカデミックなトレーニングを離れ、新しい視覚言語を生み出し始める。
第3章 「神殿のための絵画」
1904年 、 アフ・クリントは「5人」の降霊術の集いにおいて、高次の霊的存在より、物質世界からの解放や霊的能力を高めることによって人間の進化を目指す、神智学的教えについての絵を描くようにと告げられる。この啓示によって開始されたのが、全193点からなる「神殿のための絵画」。
「神殿のための絵画」は途中4年の中断期間を挟みつつ、1906年から1915年まで約10年をかけて制作された。サイズ、クオリティ、体系性、すべての面からアフ・クリントの画業の中核をなす作品群で、「原初の混沌」「エロス」「10の最大物」「進化」「白鳥」といった複数のシリーズやグループから構成されている。円や四角形といった幾何学図形、花びらや蔓といった植物由来の装飾的モチーフ、細胞、天体を思わせる形態など、実に多様な要素から構成されたこれらの作品群は、そのすべてが、眼に見えない実在の知覚、探求へと向けられている。
ヒルマ・アフ・クリント 《エロス・シリーズ,WU/薔薇シリーズ,グループII,No. 5》 1907年 油彩・キャンバス 58×79cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of the Hilma af Klint Foundation
《10の最大物》
1907年、アフ・クリントは、人生の4つの段階 (幼年期、青年期、成人期、老年期)についての「楽園のように美しい10枚の絵画」を制作する啓示を受ける。乾きの早いテンペラ技法*でわずか2か月のうちに巨大なサイズの10点は描かれた。技法やサイズなど、彼女がかつて賞賛したルネサンス期イタリアの祭壇画が持つ荘厳さを彷彿とさせる。
* 卵などを固着剤として使った絵具で描く西洋絵画の伝統的な技法
Photo: Åsa Lundén/Moderna Museet-Stockholm
Photo: Helene Toresdotter/Moderna Museet-Stockholm
ヒルマ・アフ・クリント 《10の最大物,グループIV,No. 2,幼年期》 1907年 テンペラ・紙(キャンバスに貼付) 315×234cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of the Hilma af Klint Foundation
ヒルマ・アフ・クリント 《10の最大物,グループIV,No. 9,老年期》 1907年 テンペラ・紙(キャンバスに貼付) 320×238cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of the Hilma af Klint Foundation
アフ・クリントの生きた時代において、彼女が探求した眼に見えない実在とは、精神世界にのみ関わる重要事ではなかった。たとえばトーマス・エジソン(1847–1931) やニコラ・テスラ(1856–1943)による電気に関わる発明、ヴィルヘルム・レントゲン(1845–1923)によるX線の発見、キュリー夫妻(ピエール[1859–1906]、マリー[1867–1934])に よる放射線の研究など、19世紀後半から20世紀初頭にかけて展開された科学分野における画期的な発明や発見 の数々もまた、肉眼では見ることのできない世界の把握に関わるものだった。この時代のスピリチュアリズムなど神秘主義的思想には、こういった科学的実践と共通する探求として、関心が寄せられていた側面がある。
この精神的・科学的探究が、20世紀初頭の芸術運動、とりわけ抽象的、象徴的な表現に与えた影響は絶大なものだった。精神的世界と科学的世界、双方への関心を絵画として具現化した「神殿のための絵画」の存在こそ、アフ・クリントが今日、モダン・アートにおける最重要作家の一人として位置づけられる所以。
ヒルマ・アフ・クリント 《白鳥,SUWシリーズ,グループIX:パート1,No. 1》 1914-1915年 油彩・キャンバス 150×150cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of the Hilma af Klint Foundation
ヒルマ・アフ・クリント 《白鳥,SUWシリーズ,グループIX:パート1,No. 13》 1915年 油彩・キャンバス 148.5×151cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of the Hilma af Klint Foundation
ヒルマ・アフ・クリント 《白鳥,SUWシリーズ,グループIX:パート1,No. 17》 1915年 油彩・キャンバス 150.5×151cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of the Hilma af Klint Foundation
ヒルマ・アフ・クリント 《祭壇画,グループX,No. 1》 1915年 油彩、箔・キャンバス 237.5×179.5cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of the Hilma af Klint Foundation
第4章 「神殿のための絵画」以降:人智学への旅
「神殿のための絵画」を1915年に完結させた後、アフ・クリントの制作は、いくつかの展開を見せる。1917年の「原子シリーズ」や1920年の「穀物についての作品」などは、自然科学と精神世界双方への関心や、眼に見えない存在の知覚可能性という点において「神殿のための絵画」に連なるものだが、表現としては、より幾何学性や図式性が増しているのが特徴。
1920年に介護していた母親が亡くなると、以前より関心を寄せていた神智学から分離独立した「人智学(じんちがく)」への傾倒を深め、1920年から30年にかけて人智学の本拠であるドルナッハ(スイス)に幾度も長期滞在する。人智学の創始者ルドルフ・シュタイナー(1861–1925)に、思想面だけでなく作品制作でも強い影響を受けたアフ・クリントは、幾何学的、図式的な作品から、水彩のにじみによる偶然性を活かし、色自体が主題を生み出すような作品へとその表現を変化させていった。
第5章 体系の完成へ向けて
1920年代に始まる水彩を中心とした制作は、人智学や宗教、神話に関わるような具体的モチーフを回帰させながら、晩年まで続く。なかには《地図:グレートブリテン》のように、上空から見たイギリスへ、南東(ドイツ) から不吉な風を吹きかける人物が描かれた、後の第二次世界大戦を思わせるような予言的作品も残している。
制作の一方で、1920年代半ば以降、アフ・クリントは自身の思想や表現について記した過去のノートの編集や改訂の作業を始める。アフ・クリントの後半生においては、この編集者的、アーキビスト的作業が、あるいは制作以上に大事な仕事であったのではないかとも思われる。特に注目すべきは「神殿のための絵画」を収めるための建築物の構想。制作が完了してからすでに15年以上経過した1930年代にもなお、作品を収める理想のらせん状の建築物について記し、建物内部の具体的な作品配置計画の検討も重ねていた。この神殿が実現することはなかったが、こういった自らの思想の絶えざる編集と改訂の作業は、絵画制作を含むアフ・クリントの仕事全体が、いかに厳密な体系性を目指していたかの証左となるものだろう。
1944年、1,000点をはるかに超える作品やノート類の資料などすべてを甥に託し、アフ・クリントは81歳の生涯を閉じた。
ヒルマ・アフ・クリント 《無題》 1934年 水彩・紙 50×35 cm ヒルマ・アフ・クリント財団 By courtesy of the Hilma af Klint Foundation