NeoL

開く

IWD 持続可能なわたしたち:『オオカミの群れと、99%のためのフェミニズム』宮越里子 & super-KIKI




国際女性デーにミモザが買えなかった女たち


「昨日お花屋さん行ったら今年はミモザが高いと言われたので諦めて、代わりに黄色いコート着てきた。」(@nananasuke
3月8日の国際女性デーの日、ミモザが高くて手に入れられなかったつぶやきが、いくつもTwitterのタイムラインに流れてきた。
花が何かを大きく変えるわけではないけど、シンボルとなった花を買って癒されたり、勇気が出たり、ほんのすこしの非日常的希望を求めて、私たちは「パンとバラ」のどちらも求める。これはけっして贅沢ではない。
20世紀初頭のアメリカで、移民労働者たちのストライキのメッセージとなった「We want bread and roses,too!」の象徴は、生活の糧となる「パン」と、尊厳である「バラ」。潤いとしての文化のメタファーである「バラ」や「ミモザ」を手に入れられてこそ、人の生は初めて成り立つのだから、ミモザ1本まともに買えない社会はどこかがおかしいのだ。
2000円以上したという(驚き!)高騰したミモザを諦めざるを得なかったかんなさん(@nananasuke)。かんなさんは『フェミニスト手芸グループ山姥(やまんば)』※1で活動をしている。
※1https://teamyamanba.wixsite.com/yamanba
通称『山姥』は、労働者階級の女性に呼びかけをした赤瀾会の創設者である山川菊栄など、過去のフェミニストを取り上げた読書会( #莫連たちの読書会 )開催に関わったり、#政治的な手芸部 で様々な人に参加してもらい、各自のいわゆる「個人的なことは政治的なこと」パッチワークを「人権」というバナーに仕上げ、女性たちの声を拾い集めたりしている。『山姥』のように、女性の貧困や、様々な声にスポットをあてたグラスルーツ活動の事例はたくさんあるけれど、まだまだ注目度があがっていないように感じる。
けれど、国際女性デーにあわせて組まれた特集には、なぜか著名な男性たちが登場していた。シスジェンダー男性として、男性優位主義への反省を述べているのだ。それ自体が悪いわけじゃない。大々的にやってほしい。けれど、そういう男性をとりあげるのは国際女性デー特集以外の364日でやればいい。国際女性デーには、いつも口を塞がれている色とりどりの女性の声を聞きたい。おそらくはギャラが支払われているだろうその席を、無名の貧困女性の声に変えるだけで、その女性の懐も潤ってミモザも買えただろう。本気で男性優位主義を批判するならば、その席を「再分配」に使えと言いたい。その日だけは、男性の反省を聞かされる日ではなく、女性の声を聞く日であれ。言うまでもなく、トランス女性の声も。
Sisterhood Not Just Cis-terhood.







ストライキ!でも、できっこない!?


3月8日、ファッションブランドのショップは溢れるほどのミモザで飾り付けられ、インスタグラムは「華やかなミモザイエロー」をまとったモデルたちが埋め尽くしている。ガラスの天井を突き破り、キラキラと落ちてくる破片が眩しい。でも、かけらを掃除するのは誰になるのだろう。
私だって、お花くらい何も心配することなく買いたい。けれど、店頭に並べられた商品としてのミモザを他の女たちと奪い合いたいわけでもない。「男と同じ」ように働いて、一部の資本家が労働力を搾取し続けるシステムの一部で居続けたいわけでもない。ほかの道があるなら、そこにいけたらなあ、と思ったりもする。


そもそも国際女性デーは何をする日だったか。すべての女性が性差別なく、平等に生きられる社会を目指してストライキを呼びかける日でもある。私自身はストライキをしたくても、仕事をせねばならない状況に追い込まれていた。「生活を人質に取られて正義を行使できない」。#政治的な手芸部 に参加された「路上の本屋さん」@_no_honya の名言だ。まさに、この落とし穴にはまっている私。コロナの影響なのか、私の年収は半分になっていた。国の社会保障にも期待できず、「老後」の文字が重くのしかかり、必死のフル回転に囚われ、新自由主義(ネオリベラリズム)に捕まっている。
来年から始まるインボイス制度について税理士に相談したら、「宮越さんの場合は、1ヶ月くらいのお給料がなくなると思ってください」と告げられた。終わりのはじまりだ。やっていられない! 私は、せめて…と思い立ち、無償のケア労働、感情労働ボイコットを決行した。
ストライキやボイコットに無関心だったり、拒否反応を示す人がいるのは、新自由主義に飼いならされているからなのだろう。新自由主義は、資本主義しか選択肢がないかのように、私たちの創造力をじりじりと奪っていく。にくい、ぜんぜん自由じゃない新自由主義がにくい!


この息苦しさから逃れるための言葉を、『99%のためのフェミニズム宣言』(シンジア・アルッザ, ティティ・バタチャーリャ, ナンシー・フレイザー/人文書院/2020)のなかに見つけた。
この本は、労働者階級のフェミニズムから資本主義を問い直し、それぞれの差異についても語っている。99%のフェミニズムは、移民、白人、有色人種、シスジェンダーやトランスジェンダー、ノンバイナリー、セックス・ワーカー、非正規雇用、無職、専業主婦…エトセトラの違いを無下にしない。それぞれ労働者階級の立場から、「国際主義を貫き、帝国主義と戦争には断固として反対する。99%のためのフェミニズムは反新自由主義なだけでなく、反資本主義でもあるのである」(『99%のためのフェミニズム宣言』)
家の外で働く男=労働力、家の中を守る女=無償の再生産労働のように、資本主義が必要とする労働力はジェンダー役割を刷り込まれる。資本家が使い倒せるように、男たちの愚痴を聞き、家事や育児を引き受け、リフレッシュさせて送り出すのは圧倒的に女たちである。当然、女役割をきせられているノンバイナリーも含まれる。ジェンダー役割を拒否すると、今度は共働きという、新自由主義が待ち構えている。
スペインのウエルガ・フェミニスタ(フェミニスト・ストライキ)は、参加者500万人を超える24時間のストライキを国際女性デーに決行し、女たち、フェミニストたちの労働力がいかに重要か世間に知らしめた。そのストライキには、家事、性交渉、笑顔といった無償の再生産労働のボイコットも含まれた。資本主義の仕組みでは対価は支払われない再生産労働。つまりこれは反資本主義のためのストライキなのである。




「私たちはみな、資本主義という恒常的な災害の被災者である」


資本主義を批判すると「お花畑」「現実をみろ」という批判が必ずあるけど、どっちが?と言いたくなる。インボイス制度でフリーランスや個人事業主などの免税者から金をむしり取るのに、大企業の優遇はされたまま。大企業が儲かればおこぼれがあるという理屈らしい。私だって、おこぼれを拾うのは情けないとは思わないから、誰かがお札を撒いていたらすっ飛んでいって拾う。けれども、落ちてこない金を拾うことはできない。いまだに「良い資本主義」などという偽物の夢にしがみついてSDGsのピンバッジ(SDGsグッズの生産でCO2はどのくらい増えた?)をつけているほうがよっぽどお花畑のような気もする。「良い資本主義」の洗脳をしてくる、資本を持っている一部の、それこそ1%の人間がいることを、何度も思い出さなればならない。


堅田香緒里『生きるためのフェミニズム パンとバラと反資本主義』(tababooks/2021)には太字でこう書かれている。「私たちはみな、資本主義という恒常的な災害の被災者である」。使い捨てられていく労働者に寄生しほくそ笑む資本家たち(その代表が、2021年に約19兆4,700億円を稼いだジェフ・ベゾス)にどうやってひと泡ふかせるか。資本主義ではない世界を描く創造力をどうやって作り出すか。そういう“表現の自由”こそ、私が守りたいものだ。資本主義に飼いならされないために、自分のなかの恐怖と挑戦を飼いならしてD.I.Yする。
このステッカーはお守り。何を討つべきか、忘れないように。







眞子さん応援でいいの? 資本主義と天皇制の関係


ある人から「天皇制の批判って言われると、それだけで拒否感がある」と言われたとき、どきっとした。眞子さんの結婚に際して、右翼や保守派からあらゆるバッシングや性差別が溢れた。それに対抗する人権派の中で、眞子さん応援ブームが起きた。
天皇制自体に反対する70年代ウーマンリブ/フェミニストが伝えてきたことが、ぷっつり切れていることに危機を感じてしまう。天皇制というのは、どの皇室の誰なら好きとか嫌いとか、そういう感情の問題ではなく、構造の問題であることは忘れないようにしたい。
たしかに、眞子さんと佳子さんがお別れの時に抱きしめあい、ポンと背中を押す姿には、私も思わずこころが揺れる。けれど、それでいいんだろうか。「母性」と天皇制などに注目する女性史研究家である故・加納実紀代さんは、権威の根拠が世襲、血統であり、男系しか認めないことを指摘している。※2 加納さんが、雅子さんと皇太子(現在の天皇)の結婚についての感想文を求めたところ、「皇太子様、これから夜のお仕事が始まりますね、フレーフレー皇太子」と、「公務としてのセックス」の応援を書いた人がいたらしい。…心底気持ち悪い! 産む/産まないの選択肢、リプロダクティブ・ライツ(性と生殖の自己決定権)を否定するのが天皇制だ。加納さんはほかにも、悠仁さんが生まれた時に、医者が「オギャーとおっしゃいました」なんていう、つい笑ってしまうエピソードも紹介している。権威や身分制度、そういったものがこの一言に詰まっている。
※2 (『インパクション』171号/インパクト出版会/2009)


資本主義の社会では、圧倒的に資本家ががめている。資本主義は、それを支える労働者、再生産労働を必ず必要とする。再生産労働をマーケット(市場)の外に置き、単純にいえば家事や出産と子育て、セックス、心のケアなどを全て無償の「愛」でまるっと都合よく引き受けてくれる良妻賢母が家にいること。「美しい理想の家族像」。天皇家の女たちが担わされているこの「美しい理想の家族像」は、資本主義継続のためのプロパガンダ装置にもなっているのだ。




セックスワーカーと主婦の分断を乗り越えて


良妻賢母の理想は、いつも「娼婦」の蔑視とセットだった。「娼婦」VS「主婦」という女同士のキャットファイト的な分断には、近代天皇制が深く関わっている。鈴木裕子さんの『天皇制・「慰安婦」・フェミニズム』(インパクト出版会/2002)で詳しく書かれているが、近代天皇制は女たちを政治的世界から追い出し、家に閉じ込めるため母役割の「良妻賢母」とは対局に、「娼婦」を置いた。「娼婦」は男の快楽を担わされ、近代天皇制の“国家”が管理する公娼制度に囚われていく。
「近代天皇制国家は、いわば女性の性を「家婦」と「娼婦」の性に二分し、女の分断支配を図った、といえる。両者はともに生と性の自己決定権を奪われながら、対立・排斥の構図のもとにおかれたのである。」(鈴木裕子)
鈴木さんの指摘どおり、国家という巨大な家父長制のせいで、女たちはそれぞれの自己決定を奪われ、対立させられるわけだ。さらに、戦時中には天皇の軍隊が男にとって都合が良い言い訳をしながら、おぞましい性奴隷の「制度」をつくりあげた。
「「性的慰安」の役割は、異民族、とりわけ当時、日本植民地下であった女たち、わけても(中略)朝鮮半島の若い娘たちに照準があてられた。こうして「従軍慰安婦」(日本軍性奴隷)制度なるものがつくりだされたのだ。」(鈴木裕子)
そう、こうして天皇制は女たちを、主婦や妻、セックスワーカー、戦時性暴力被害者の「慰安婦」に分断した。フェミニストは、こうした家父長制のたくらみは断固拒否する。そんな対立の枠組みに乗ってたまるか。


気をつけたい点として、私たちフェミニストが闘うべきは、未解決となっている戦時性暴力や、男性中心社会、家父長制、国家権力であり、現在(いま)を生きるセックスワーカーではない。
近代社会は、国民国家と資本主義で成り立っているが、すでに述べたとおり、国家や資本家から搾取されているのは、性の労働者も、無賃労働の主婦や妻も、同じである。
人を労働力としてみる資本家たちは、人口管理と「生産性」に興味があり、計画的に「適正な」人数の子供を生むような家の中での性行為を「良いセックス」とする。それ以外は全て「悪いセックス」として見下す。私たちはそういった精子と卵子のロマンチック・ラヴ・イデオロギーも刷り込まれている。※3
「娼婦」をあわれむべき汚れた存在かつ男性にとって都合のよいものとしながら、主婦に良妻賢母をもとめるという女たちの分断こそが、家父長制なのだ。同じ敵に搾取されているのに、制度の外で不安定な状態に置かれるセックスワーカーを見下し、性の労働にだけ廃止を求めるのは単なる差別である。
Sex work is work.
私は国家による管理売春や、セックスワーカーが周縁に置かれる排除、および差別を批判している。人権を守り、非犯罪化を実現し、ともにあるフェミニズムを目指していきたい。


補足:アムネスティ【Q&A】セックスワーカーの人権を擁護する方針に関して
https://www.amnesty.or.jp/news/2016/0526_6062.html


※3 参考:『セックスワーク・スタディーズ 当事者視点で考える性と労働』(SWASH編/日本評論社/2018)より「なぜ「性」は語りにくいのか 近代の成り立ちとセックスワーク」(山田創平)




日本のフェミニズムは、どうすれば国という枠を超えられるか


侵略や、戦時性暴力「慰安婦」制度の加害側である日本のフェミニズムは、どうすれば東アジアと連帯できるのだろうか。どうすればグローバル・フェミニズムに、99%のためのフェミニズムになれるのか。
先の戦争の反省をとことん突き詰め、日本人の加害性に向き合えば、国の枠から外れた連帯も可能かもしれない。そこで私は、映画『狼をさがして』(キム・ミレ監督/2021)を思い出す。
「高度経済成長の只中、日本に影を落とす帝国主義の闇。彼らが抗していたものとは何だったのか?彼らの言う「反日」とは?未解決の戦後史がそこに立ち現れる。」
(公式パンフレットより)





キム・ミレ監督は、スーパーで働く女性たちがリストラに抗して職場をオキュパイするドキュメンタリー『外泊』(2009)や、韓国社会や日本社会の低所得日雇い労働者の構造問題を問う『ノガダ/土方』(2005)などを手がけてきた。『狼をさがして』は、キム監督が東アジア反日武装戦線事件を取材したものだ。
同グループは、1974年8月30日、東京・丸の内の三菱重工本社ビル爆破事件を起こし、8名の死者と約380名の負傷者を出してしまう。事件後、近代化によって絶滅したニホンオオカミの名をつけた「東アジア反日武装戦線〈狼〉」は、侵略企業・植民者への攻撃という主旨の声明文を発表。戦後、原爆を落とされた被害性だけを強調し、日本の加害性を忘れた自国に対する宣戦布告だった。その後、日本という「国」と戦い、第三世界に合流する思想に共鳴した別働隊〈大地の牙〉〈さそり〉のそれぞれが、旧財閥系企業などへの連続爆破事件を起こす。
キム監督は、ある人から「日本の日雇い労働の前身、東アジア反日武装戦線を撮ってほしい」と頼まれたそうだ。頼んだ人はおそらく、キム・ミレ監督であれば、彼女ら/彼らが何を伝えたかったのか、構造問題の側面も捉えてくれると期待したのではないか。『狼をさがして』は、東京が地方に押し付けている原発と中央集権問題や、アイヌへの植民地支配の加害についても描いている。


いま、反日武装戦線と同じような事件があったら、私は心の底から怒ると思う。無自覚に植民地支配の思想を引きずり、被害性だけを強調し、いまだ続いている差別や搾取にも目をつむる寝ぼけまなこたちに対して「目を覚ませ」。伝えたかったのはそういうことだろう。それには共感する。だからこそ、何様のつもりだ、と言いたい。
支援者である評論家の太田昌国氏は、「「反日」の彼らは、なぜ、自分たちだけをそんな高みに置くことができたのか。所詮は、帝国主義本国、爛熟した高度資本制社会の真っただ中に生きている人間同士ではないか」と書いている。
太田氏は、三菱本社ビルで自分が巻き込まれたとしたら、帝国主義本国人として甘受すべき運命かと自分に問うて、拒否している。さらに三菱ビル爆破後に出された声明文を「居直り」だと批判する。しかし、それでもなお太田氏は、彼女ら/彼らの目の覚めるような「初心」を支えようとする。左翼による党派間の内ゲバ、連合赤軍の同志殺し、東アジア反日武装戦線の三菱爆破を批判する文章を公表しながら、獄中に会いに行く。それを「〈批判的〉救援の論理」と呼ぶ。


上映後に映画館で行われた〈大地の牙〉メンバーの浴田由紀子氏と、評論家の太田昌国氏トークのなかで、浴田さんはこう語っていた。
「韓国旅行に行った際、「慰安婦」の方や、買春ツアーに参加してキーセンに通う日本人男性や、そこでの、同世代の韓国人女性たちを見て、私はお嬢さんでいいんだろうかという”自己批判”もあった。」
このあまりに素直すぎる気づきと反省には、セックスワーカーの受けているスティグマを強化しかねない危うさも感じる。けれど、それでも、韓国のキーセンに通う日本人男性買春ツアーにただよう植民地支配や、女性の性に対する男の支配、そのような臭いを嗅ぎつける「目の覚めるような初心」が、日本には圧倒的に足りないのではないか。


トークを聞いたあと私は、彼女たちがこうまでして伝えたかったことはなんだろうと考えた。その凄み や真剣さ、そして戻ってこない命や負傷された方々のことが頭から離れない。この映画は、私のトラウマとなった。何日も悪夢にうなされた。
人が亡くなっている、負傷者が大勢出ている。許されることではない。極左になりたいわけでもないし、いきり倒したいわけでもない。爆弾を作りたいとも、使いたいとも思わないし、誰かに使わせたいとも思わない。かつて参政権を夢をみて、爆弾を投げていたフェミニズム運動にサフラジェットがあるが、あまりにも予想がつかないシロモノで不安定すぎる。ただ、東アジア反日武装戦線の失敗を繰り返さず、国境を超えるフェミニズムをとことん考える必要があるのではないか。
無自覚なまま資本主義トラックを回し踊り続け、資本主義プロパガンダとしての側面を持つ天皇制を受け入れ、その背景には、何万人、何十万人…数えきれないほど日本の植民地支配下で亡くなっている人たちがいる。そういう背景に知らん顔して、ピンとこない、知りたくない、と日常を過ごす私たちの加害性と、爆発物を使用した加害性と、どう違うのだろうか? 歴史の重さが突きつけられ、あなたのフェミニズムはどう応答するのか?と問いかけてくる。
死傷者をだす大惨事になったのは「昭和天皇裕仁(ヒロヒト)」を狙う、〈虹作戦〉の鉄橋爆破に使う予定だった強力な爆弾を、そのまま三菱重工本社ビルに使ったことが原因だと、多くの人が指摘している。〈虹作戦〉とは、天皇御用列車が通過するとされていた荒川橋梁を爆破する予定だったが、実際には実行されずに終わった計画である。
もし、1974年の8月14日、荒川の鉄橋が爆破されていたら、戦争の反省を述べることなく「あ、そう」と死んでいった裕仁に対して、天皇制というシステムに対して、私は何を思ったのだろうか。みんなはどう考えただろうか。
もし、天皇制のメタファーとして鉄橋を爆破する架空の〈虹計画〉を、イメージで蘇らせたらどのような応答があるか。”実際に爆弾を使わせないために”、空想し、クリエイトし、なにを「破壊」するべきかの指をさし、狼煙(のろし)をあげたら?
クリエイターができることは夢をみせること。どのような反省をして、どのような世界を描きたいかを示す。そういうポップカルチャーはすでに大ヒットしている。黒人奴隷制を黒人ヒーローが撃破したり、ナチスを追い詰める。成し遂げられなかった過去をイメージで蘇らせ、エンパワーする力が、それらの作品にはある。
音楽家はアンセム・ソングを、クリエイターはアンセム・ビジュアルを。トランスナショナルのイマジネーションには力があると信じたい。



Visual Image by super-KIKI


※今回の企画は時間の関係で、文章は私、ビジュアルはコンセプトを伝えて、妹のsuper-KIKIさんに分担させて頂いた。このような難儀なコンセプトのビジュアル制作を引き受けてくれたキキさんに改めてお礼を言いたいと思います。ありがとうございました。




呼応する狼たち


映画『狼をさがして』の自主上映と討論のアーカイブ作業が国内外で行われるなか、あらたに「狼」を自認する者たちが現れはじめている、とキム・ミレ監督は言う。
韓国のフェミニストたちは、時には一匹で、時には群となって、自立した狼の姿となる。噛み付く相手は日本の植民地支配による朝鮮半島の分断、日本の帝国主義の末裔の側面を持つ保守主義、それと同時に韓国内の家父長制である。
映画『お嬢さん』(パク・チャヌク/2016)でも、植民地支配する日本に対してゴマをする保守勢力へのアイロニーが描かれていたことを考えると、いかに韓国のポップカルチャーが成熟しているかわかる。
私がキム・ミレ監督をトランス・ナショナルのフェミニストだと感じるのは、つぎのような言葉を語っているからだ。
まず、日本社会と韓国社会では「反日」の意味が違う点について。日本社会での「反日」は、敗戦後、侵略戦争の「加害事実」を語らずに、原爆の「被害事実」を強調する日本に対しての問題提起である。しかし、解放以降の韓国社会での「反日」は「被害事実」を中心に持続してきたものだ、 だから言葉の意味が違うと思う、と監督は述べる。
続いて、似ている点も指摘する。「韓国も日本も近現代史において、自らの「加害事実」について語ろうとしないのは、似通っていると思います。」※4
キム監督は、国の問題、自国のナショナリズムと闘っている人なのだ。
※4『狼をさがして』パンフレット「プロダクション・ノート」より


東アジア反日武装戦線が連続爆破を起こした70年代とは時代が変わっているとすれば、それは韓国の圧倒的な民主化の成功と、経済成長である。その社会を担った男たちの中には、他の国たちと同様、家父長制がある。そのような韓国のナショナリズムと家父長制に抗するフェミニストがトランス・ナショナルの、99%のフェミニストだ。
日韓それぞれの状況が違っているいま、上から目線の寄り添いで反省や自己批判だけを行う「支援型」の連帯には限界があるはずだ。被害者に寄り添うつもりでうっかり憑依をしないように、主体を持って動かねばならない。


エスニシティやレイシズムとジェンダー研究、そして社会運動をつないできた鄭暎惠さんは、「グローバル・フェミニズムの可能性」※4を語っていた。「本当に日本人が韓国人女性、在日朝鮮人女性の性差別と闘う運動と連帯したいなら、まず自分たちがそこに及ぼしてきた支配の関係を問い返して欲しい」(鄭暎惠)。ただ支援をするというのはとんでもない勘違いで、自分たち自身を問い、脱構築し、主体性を持つ。それがグローバル・フェミニズムとして重要だと。
※4(『インパクション 』「フェミニズムのアジア」鄭暎惠(チョン・ヨンへ)×岡真理対談より「グローバル・フェミニズムの可能性」/インパクト出版会/1995)


鄭暎惠さんが語ったこと、それが、この文章で私がなんどか触れてきたトランス・ナショナルということだと思っている。私のような日本に住むものは、日本のネイションを取り巻く問題に目を向けて動く。国境を超えて繋がりましょう、とだけ言ってもむなしく響くか、盛大な「お前が言うな」が返ってくるだろう。
東アジアのフェミニストたちが、同じ目線で語ることは不可能かもしれないが、それぞれの土地で、なすべきことをなす。
積み重ねてはじめて、点と点がつながり、群れとなる。




反資本主義アンセム・ソング『オオカミが現れた』


韓国のシンガー・ソングライター、コミック作家、映像作家、イラストレーター、エッセイストであるイ・ランさんのアルバム『オオカミが現れた』(2021)には、反資本主義の歌詞や競争社会への疑いや警告のリリックが並ぶ。ジャケットデザイン(日本版)の紙には、本物の紙幣が切り刻まれ、お金としての価値がなくなった、ただの素材としての状態で散りばめられている。


『オオカミが現れた』(イ・ラン/Sweet Dreams Press/2021)

私の友達はみんな貧乏です
この貧しさについて考えてみてください
それはそのうち あなたにもふりかかるでしょう
この土地には衝撃が必要です


良いパンは金持ちに買い占められたことを知った人々が
棒と熊手を持って 城門を叩く


魔女が現れた
暴徒が現れた
異端が現れた
オオカミが現れた


イ・ランさんは2017年に韓国大衆音楽賞を受賞。授賞式スピーチのその場でトロフィーをオークションにかけ、権威があるように見えても賞金がないことや、どれだけ金を稼ぐのが難しい社会か、という現実のハリボテ感を暴いたパフォーマンスも行なっている。がちがちに固まった資本主義社会ではない、別の道しるべを作る人だ。
『オオカミが現れた』は「同志」たちの抵抗歌であり、地下組織のようなイメージも持っていたそうだ。音楽だけではなく、仲間を探すことが目標、連帯が重要とインタビューで答えている。
この曲に参加している、性の多様性とフェミニズムを支援する合唱団オンニ・クワイア(Unnie Choir)の指揮者が、わあっと口を大きくオオカミのようにあけ、噛みつくように指揮をとる姿と、合唱団がさけぶ「オオカミが現れた」の残響は、圧巻。力がみなぎり、そのこだまに応答したくなる。





『狼をさがして』にも『オオカミが現れた』にも、血を流したオオカミのビジュアルが描かれている。
私たちはみな、同じ傷は持っていない。差異を簡単に忘れていはいけない。
けれども、同じ血を流している。
これはただの偶然かもしれない。でも、これは必然だ、と信じたくなる。
離れていても、同じものを信じる力が、私たちには必要だ。


世界のあちこちで、オオカミの遠吠えを


狼煙(のろし)をあげよう。
火の回りに集まった、闘い血を流して傷をおったオオカミ、逃げ出してきたオオカミ、一匹でいたいけどたまには心細くなるオオカミ。じゃれ合うこともあれば、噛みつかれることもあるだろう。群れをなすときもあれば、ばらばらに、迷子になることもあるかもしれない。
友達や家族のように仲良くなる必要もない。いかなるヘゲモニーやセクト主義とも関わらない。
ともに資本主義の山を越えていきたい。国境を超えていきたい。
世界のあちこちに”オオカミ”が出る–––99%のためのフェミニズムというオオカミである。
オオカミの遠吠えを聞いたら、あなたの土地から応答を。


Visual Image : super-KIKI
direction & text : Satoko Miyakoshi


宮越里子
デザイナー。『ミュージック・マガジン』『AERA×LUMINE』、あっこゴリラ『GRRRLISM』など、エディトリアル、グラフィックデザインを中心に手がける。フェミニズムZINE『NEW ERA Ladies』編集・デザイン担当
Satoko Miyakoshi Twitter :@osonodoyo
NEW ERA Ladies Twitter :@NEWERAladies
Mail:neweraladies@gmail.com


super-KIKI
どうしたら個が尊重される社会を生きれるかを自分自身のケアと共に考え、格差是正のための運動に応答する形で表現する。横断幕、服などの身につけられるもの、セルフィー、イメージビジュアルの制作などDIYを中心にマイペースに制作中。猪熊弦一郎現代美術館「まみえる 千変万化な顔たち」(2021)参加など。
Instagram:@super.kiki

RELATED

LATEST

Load more

TOPICS