宮崎大祐監督作品が世界のオーディエンスに大変な関心を持って受け入れられていることは、英語タイトルでの検索をしてみればすぐにわかる。レビューやインタビューはどれも熱量高く、彼がどんな世界を描こうとしているのかを懸命に読み解こうとどのシーンをも見逃すまいと必死だ。実際に長編初監督作品である『夜が終わる場所』はサンパウロ国際映画祭、トランシルバニア国際映画祭など世界中の国際映画祭に出品され、カナダでの受賞をはじめ、ベルリン国際映画祭のタレント部門にも選出。ヒップホップを芯に据え米軍基地のある街ならではの物語を描いた『大和(カリフォルニア)』、シンガポールとの国際共同制作であり、現地を歩き初めて歴史を知る少女たちを描いた『TOURISM』とともに高い評価を得ている。
その宮崎監督の最新作『VIDEOPHOBIA』もまたモントリオールやチョンジュの映画祭で話題をさらった傑作。軸となるストーリーは、役者を志す愛(廣田朋菜)が、自身の情時の映像がアダルトサイトで流出していることを知り精神を失調し始めるというものだが、その物語、カメラワーク、構成、演出全てに様々な解釈可能なレイヤーが幾重にも張り巡らせられており、気づけばオーディエンス自身も作品内に取り込まれているような不思議な体験をすることとなる。そしてその最中に自身を含む世界の姿、社会の状況にも知らず知らず眼差しを向けることになり、鑑賞後に対峙する世界の姿も変わって見えるーーこの全方位的でありながら非常に鋭利な視点、圧倒的なオリジナリティがファンを熱狂させる所以だと作品でもって証明している宮崎監督と、映像内の半分以上を自身の顔のアップで構成されるという本作で主人公・愛を演じ、凄まじい存在感で観衆を引き込んだ廣田朋菜に話を聞いた。
――本作を拝見してアイデンティティの喪失、行方、ボーダーというものを考えさせられました。それも人間だけではなく、土地や映画自体などありとあらゆるアイデンティティやボーダーに関して考えさせられて。
宮崎「その“ボーダー”というのは僕が生活の中で一番気になるところなんです。自分対他者や国籍、人種など様々なボーダーがあり、それに対して様々な手法を試してみたんですけど、結局どこまで行っても答えは出ない問題なんですよね。でも一度映画にしてみたかった。今までの作品ではそこにテーマを集中させずわりと配分しながらやったんですけど、今回は気になっていることをそのままやってみようと思って作ったので、僕の生活認識に近い世界になっています」
――ああ、だからカメラワークも主体客体がシームレスに移行する。
宮崎「そうですね。あまり嫌味のないようにしながらも、作品テーマから逸れないように、ここは手持ち、引きの絵、主観、客観に飽きてきたら誰だかわからない主観という風に、カメラワークに関しては相当計算してやっています。でも最終的なところには偶然性などを取り込みたいので、95%は固めて、5〜10%は遊びの状態を残しておくというやり方です」
――監督の世界認識に近いということでしたが、 廣田さんはそれが脚本の形になっているものを読まれて、その認識と対峙してどう思われましたか。
廣田「不思議なことに何の違和感もなく読んでいた部分もありました。文字に起こしている段階でも引いたり寄ったりの構図が読み取れたので、『これはなぜなんですか?』と私なりに解釈して質問してということを初期の段階から繰り返していて、認識のすり合わせはできていました。だから現場に入った時には、その5〜10%あたりのところを現場で作り上げていくという方向に私も勝手に入っていたという感じです」
――独特の世界観ですが、そこに違和感なく入れたのはなぜだったんでしょう?
廣田「私も小学生くらいの時からなぜ自分はここにいるんだろう、なぜ生きているんだろうといったことを漠然と考えた時期がありました。他者とのボーダーについてもそう。何か原因があったわけではないのですが、日々の積み重ねで考えることが多くて。それが生活していく中で大人になって、社会や人と対峙している間に傷つかないようにうまく壁を作っていた部分があった。監督とお会いした時にちょうどその壁を再認識して取っ払う作業なのか、または新しい壁と向き合わなくてはいけない時期に入ってきたと感じていたので、すっと入ってきたのだと思います。
私にとってそもそも映画とはそうした自分の中の疑問を体現したり、伝えられる可能性があると信じているもので、かけ離れたきらびやかな世界ということではないんですね。自分と地続きのもの。表現の仕方が多様な映画でなら長年の答えが見つかるかもしれないということに賭けてみたいし、やっていくだけだと思っています。本作とはそんなタイミングでの出会いだったんです」
――では廣田さんにとっても日頃考えられていることがテーマになっていたんですね。
廣田「はい。それを考えよう、一緒にやろうと言われた時にはやるしかないと。宮崎監督の話や作品などを観て、監督は私が知りたい道のちょっと先を歩いてると感じたので、この人が見ている世界に追いつきたいし、見てみたいなとは思っていました」
宮崎「驚きました。今、初めてそういう風に思ってもらえていたことを知ったので」
廣田「そんなことあまり言うものではないと思っていたので。言葉は難しい、だから映画や他の表現媒体があるんじゃないかなと考えてる部分もあるんです」
――とはいえ、本作は顔をアップでずっと映し出されるという点からも、性的な描写があるという点でも役者にとってチャレンジングな作品だったのでは?
廣田「監督とは私の過去作の現場で一度お会いしているんです。私は自分の顔に関して違和感を感じていて、この不思議さはなんだろう、これでは撮る側も演出する側も難しいだろうなと思っていたんですよ。でも監督はその違和感のまま、それと向き合って撮ろうということを言ってくれたから単純に嬉しかった。確かに大変だったりチャレンジングな場面もありましたが、自分自身が顔や身体性を持て余していた部分があったので、それがどうなるのかというワクワクの方が大きかったです」
宮崎「自分の映画作りは、すごく上手な俳優さんが現場に来てパッとやって帰るというよりは、その人自体の何かを引き出しながら、自分の描きたいものとの掛け算にしたいんです。足し算ではなく。特に今回は主人公だけで物語の大半が展開される上に寄りの絵が多いということで、どういう形だったら成立するのか、映画として面白いのかということと同時に、一人一人特有なものである“顔”の魅力を引き出すうまい塩梅を探るために廣田さんに色々お付き合いいただいて廣田さんについて知るリサーチ期間を長めにしました」
廣田「撮影前に私の癖などを観察して、私は会話が上手な方ではないので普段伝えなきゃという意識で生活してるからか、必要以上に余計なことをしてるなという自覚はあって芝居にも出たりするんです。そんな悩みも見抜かれたりしました」
宮崎「あまり余計なことをしないほうが伝わることが多いというか、映画においては動きが減ったほうがいいかもしれないというような言い方をしましたね」
廣田「あと『イザベル・ユペールを目指してる』ってお茶しながら話してたんですよ」
宮崎「そしたらそれがセリフになっていたり(笑)」
廣田「そう、なってるじゃん!って(笑)」
宮崎「そのワンカットだけ本当に本人の設定でやっていただいたのですが、不思議なことに一番リテイクしましたね。『廣田さんじゃない、それは本当の廣田さんじゃない!』って僕が言ってて。『本当の私って何?』みたいな表情をずっとしてましたよね」
廣田「羞恥心なんてとっくになくしてしまったところはあるのですが、それがカメラをドンと置かれてやられるとさすがにやっぱり人は変な感じになるんだなって(笑)。役者が役者を演じるということも含め、今思うと普通の精神でやってなかったんだなと思います。いつ自我が崩壊してもおかしくない状況の中で愛を演じていたのだなって、今やっと気づきました」
――まさにそのカメラを向けるということの加害性も本作のテーマですよね。今カメラが街中に溢れていてカメラを向けることが当然のことのようになっている社会へのアイロニーも感じました。
宮崎「もちろんそれはあります。誰もがカメラを1台ずつ持っていて、 SNS で求められていないのに自己表現して、人の写真を撮ってアップする世界って、自由な表現ができるようになった一方で、いろんなことを非常に窮屈にしていていると思います。僕自身、監視する眼差しが世界中どこにでもある世界ってめちゃくちゃ生きづらいなという実感がすごくありまして。特に日本もここ数年でそのスマホはもちろん、監視カメラも劇的に増えて、街のグラフィティもほとんど消え去って、ジェントリフィケーションが進んでいることに対する問題意識もありました。その辺りがまだ大阪だとわりとゆるめなんですよね。多分これから万博に向けて強まっていくんですけど、ああいう監視カメラが無さそうな場所にもカメラがあったり、おちおち寝てられないような社会不安、時代不安のようなものは出したかったです」
廣田「見られるのって嫌ですよね。私は親にすすめられてこの世界に入ったんですけど、自分の意識としてはリハビリだったんです。学校でも元気に仲良く友達とはやっていて楽しかったんですけど、見られていることに対しての違和感はずっとあって。学校でもスカートの短さだったり、勝手に自分のランクが評価されることってあるじゃないですか。学校を卒業して働き始めても、結局そういう評価がついて回ってくる。この業界は特にそれがくっきりしていて、だからこそここで疑問を体現したかったというのもあります」
――特に女性へのルッキズムは顕著ですから、その違和感は自分の体感としてもわかります。
宮崎「そうですよね。打ち合わせの時にも、愛というキャラクターを鏡のように考えていますということは何度も伝えました。今の社会がいかに男性的なものやその暴力で満たされてるかを、ただそこにいるだけでそういう暴力を反射する鏡。過剰に被害者として描くことももなく、淡々とこの異常な世界を映す鏡として廣田さんには街を行ったり来たりしてもらったような感じでした」
――その様は真摯に映し出されていたと思います。鏡と関連して、反復作用についてもおうかがいしたいです。本作では様々な反復と対比が組み込まれていて、それが幾重にもズレて主体と客体が曖昧になっていく作用を生んでいますね。
宮崎「まずこの映画においては、スクリーンの中にある被害者がいてそれを観客が露悪的に楽しむあるいは共感するという関係性そのものをリセットしたいという狙いがあったので、観客も加害者であり同時に被害者である、正しい者は誰もいないという状態をどう演出とカメラとで作るかはすごく考えましたね。反復に関しては自分の好きな哲学者が差違と反復についてよく語っていたりするのと、僕はブラック・ミュージックがすごく好きで、それと同じような反復するつまらない日常の中でちょっとずつズレが生じて、何かそこにしかない意味が見出される、グルーヴが出てくるみたいなことを作品の中でもずっとやってきたつもりで、それを今回もやろうという狙いはありました」
――踊るという行為も度々出てきます。『TOURISM』でも踊りが象徴的に使われていますが、今回もマイム・マイム、クラブのシーンや祭りの踊りと身体性を感じさせる場面も差し込まれている。
宮崎「マイム・マイムのシーンはお互いの手に触れるという接触を重視しています。接触は人との境界線をすごく意識する行為だと思うのですが、日本では握手を含めなかなか機会の少ない行為です。そこですぐにではなくても観客が何か『最近人に触れていないな』とか感じてくれたらと。踊りに関しては、パフォーマンスや舞踏を観ていて、『人間ってこんな動きをするんだ』と思うことが多いんですよ。映画は人間のアクションの限界を表象する芸術だと思っているから、そういう思いもよらない動きや何かありがちな動きであってもこの人がやったら新しい世界がいきなり見えるというような、人間の新たな可能性を提示したいというのはあります」
――身体というところでいうと、愛( I )と対比しての悠(YOU)の存在もまた様々な可能性があり考えさせられました。
宮崎「あそこにもいろんな罠があって、悠が何者かという答えは出ていないんですよね。自分対世界というテーマについて、本作の構想をしていた2018年段階では、自分対他人で世界を捉えるとなかなか難しいんだけど2、3人の小さなグループ対その他という生き方はあるのかなと思っていたんです。他者ではない、誰か親愛な隣人とでもいうべき人たち2、3人で、そのグループ対外部あるいは世界というイメージで生きるのかなと思ってのあのエンディングだった。サスペンスと言う方もいるんですが、自分の中では希望の沈黙がその後にあるような意図があったんです。人間は究極的には家族であっても信頼しきることはできないと思うんですけど、それでも他者に向けて努力し続けるしかないというような思いであの演出にしました」
――場所に関しても聞かせてください。愛は在日3世という設定で、鶴橋が舞台になっています。『TOURISM』で戦争のモニュメントがあったように、鶴橋という場所にも大きな意味があったと思います。
宮崎「終戦記念日などにいつも思うのが、あれからたった70年、80年しか経ってないのかということです。70年、80年って子供の頃はすごく長く果てしなく感じましたけど、これくらいの歳になるとあっという間なんだなと。そのあっという間に、こんなに全てが跡形もなくなってしまって、何事もなかったように街が復興して、まるで何もなかったかのように世の中が流れていくことに強烈な違和感がある。そうやって自覚的に眺めてみると、大阪にしろ大和の街にしろ、東京都内のいたるところにも爪痕だったり、戦争の前の時代がまだ生き続けてるというのが見えてきて、そうした大きな断絶を記録しておくのも映画が持っている非常に重要な要素だと思うんです。東京だともう教育しないというところにまでいってしまっていますが、関西においても最近では在日だったり差別部落などを描かないことでやり過ごそうという雰囲気が感じられて、それは非常に不誠実だと子供の頃から思っていました。大阪でやるんだったらそういう問題や背景の歴史というのは絶対に含まれないとなんとも薄っぺらい表現になってしまうので、その辺りがしっかり描けて、あざとくならないで背景で浮き出てくるというのに鶴橋界隈はもってこいだったというのはあります。
やっぱり自分を主体として、その歴史の中の一員であるという認識からすべてを始めないといけないと思うんですよ。人間なんて60年から100年くらいしか生きられないけど、戦争や暴力の歴史はその短いスパンの中で受け継いでいかなきゃいけないし考え続けなきゃいけないテーマ。今の映画は上辺しかないメジャーなものと、何か意義や信念があるんだけど予算がないものに二極化しています。そんな世界では、何か意義があるという意味では歴史的な記録というものが非常に重要になってくると思います」
――残念ながらその認識がなされてるものは少なく、描かず教育もしないという蓋をしていることで腐敗を招いてしまっている部分が多々あると思います。
宮崎「80年代以降、日本的未成熟などと言って多くの日本の表現者がそれに開き直りはじめたのは非常に危ない傾向だと思います。表現者だったらそこはちゃんと考えるべきだし向き合うべきだし、これも当然答えが出ないんですけど、興味の中心には置いておくべきで、それを描かないことであえて描くんだというようなことを不勉強と無思考に開き直って言い続けている人間が映画界にも多いのは信じられません。僕は日本的未成熟が大嫌いですね」
――同感です。あとこれは質問ではなくただの感想ですが、BAKUさんの音楽、あの劇中の不穏なムードからエンディングのダイナミズムは最高でした。
宮崎「ありがとうございます。”VIDEOPHOBIA feat. Jin Dogg, Nunchaku (Tatsuro Mukai, Kuni), Tomy Wealth “は全部聴くと、最初の朗読から物語になってるんです。みなさんが映画を観終わった後にあの歌詞を書いてくださったので感動的でした。僕も最高だと思います。あの曲を物語化した短編映画のようなミュージック・ビデオを今作ってまして、大阪とか千葉でロケをはじめつつ、予算が足りず、いまもBAKUさんがクラウドファンディング(https://camp-fire.jp/projects/view/316070)で制作費を募っているので引き続きよろしく願いします」
――最後に、次回作についてなど教えていただけますか。
廣田「今若い世代の子たちと仕事をすることに興味を持っていて、20歳の男性監督との長編を今年の1月に撮り終わり編集中です。家族の話なんですけど、タイムループして関係性が変わっていくという話なのですが、その変化が彼のまっすぐな意見が詰まってて素敵だなと思いました。それがうまいこと行けば上映できるのかな」
宮崎「歌舞伎町や北新宿を舞台にした『北新宿2005」という、ラッパーの漢 a.k.a. GAMIさんが原作を書いた中編の実験完映画的なものがほぼ完成していたり、大阪で『VIDEOPHOBIA』の後に撮った実験映画があるのと、来年やりたい企画を今いくつか準備してる段階です」
photography Yudai Kusano
text&edit Ryoko Kuwahara
『VIDEOPHOBIA』
10月24日(土)〜K’s cinema、11月7日(土)〜池袋シネマ・ロサ、大阪・第七藝術劇場、他全国順次公開
http://videophobia2020.com/
【ストーリー】
東京で女優になるという夢破れて故郷・大阪のコリアンタウンに帰って来た29歳の愛はそれでも夢をあきらめきれず、実家に住み、バイトをしながら演技のワークショップに通っていた。そんなある日愛はクラブで出会った男と一晩限りの関係をもつ。数日後、愛はその夜の情事を撮影したと思われる動画がネット上に流出してい ることに気づく。その後も連日、その夜のものと思われる動画がネット上に投稿される。自分のものとは断言できないが拡散し始める映像に、愛は徐々に精神を失調し始める――。
監督・脚本:宮崎大祐/音楽:BAKU(KAIKOO)/プロデューサー西尾孔志/撮影:渡邉寿岳/録音:黄永昌
製作:DEEP END PICTURES、十三・シアター・セブン/出演:廣田朋菜、忍成修吾、芦那すみれ、梅田誠弘、サヘル・ローズ、辰寿広美、森田亜紀
2019年/日本/88分/モノクロ 配給・宣伝: boid/VOICEOFGHOST 宣伝協力:クエストルーム株式会社
【Twitter】【Instagram】@VIDEOPHOBIA2020
©「VIDEOPHOBIA」製作委員会
宮崎大祐
1980年、神奈川県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、映画美学校を経て、黒沢清監督作品など商業映画の現場にフリーの助監督として参加しはじめる。2011年に初の長編作品『夜が終わる場所』を監督。南米最大であるサンパウロ国際映画祭やモントリオール・ヌーボーシネマ国際映画祭に出品され、トロント新世代映画祭では特別賞を受賞する。2013年にはイギリスのレインダンス国際映画祭が選定する「今注目すべき七人の日本人インディペンデント映画監督」のうちの一人に選ばれた。その年に参加したアジア四ヶ国によるオムニバス映画『5TO9』は、中華圏のアカデミー賞こと台北金馬国際影展など多数の国際映画祭に出品され、2018年夏より全国公開。長編第二作『大和(カリフォルニア)』はタリン・ブラックナイト映画祭を始め幾つもの国際映画祭で上映され、The New York TimesやVARIETY、Hollywood Reporterなどの海外有力メディアでも絶賛された。2019年にシンガポール国際映画祭とシンガポール・アートサイエンスミュージアムの共同製作である『TOURISM』を全国公開し、反響を呼ぶ。脚本家としても活動しており、代表作には綾野剛主演『孤独な惑星』や『ひかりをあててしぼる』などがある。
https://www.daisukemiyazaki.com
廣田朋菜
1987年生まれ。『オペレッタ狸御殿』(05 鈴木清順監督)、『猫目小僧』(06 井口昇監督)、『恋するマドリ』(07 大九明子監督)など多数の映画に出演。TBSドラマ「ドラゴン桜」「再婚一直線!」、テレビ朝日ドラマ「ハラハラ刑事」、日本テレビドラマ「ギャルサー」「美食探偵 明智五郎」、NHKドラマ「トットてれび」などで活躍。サニーデイ・サービス「セツナ」のMV出演でも知られている。
https://www.hirotatomona.com
Contactphobia
11/2(月) 祝前日 20:00-4:00 @contact
DOOR:3000yen
ADV:2000yen
https://www.contacttokyo.com/
BAKU(KAIKOO)
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